【連載】

『神ながらの道』図解

−−筧克彦とその思想

       

西田 彰一
立命館大学衣笠総合研究機構 専門研究員

 

〈毎月第1月曜日更新(祝日の場合は翌営業日更新)〉

 

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第14回

「第三図」·「第五図」の解説―神と人との関係―

 今回は第三図と第四図及び第五図についての解説を述べたい。まず第三図「神と人との関係其の一」である。この図は第一章「御神格」の第一節「神及び『みこと』の意義」に掲載されている。
 まず前提として、筧は皇国すなわち日本は「神神の御要求其の儘を本質として成立発達しつつある国」であるとして、神の性質それ自体を本質として成立発達しつつある国であると述べている(内務省神社局、1926年)7頁)。そのため、天皇はすべての本源であるアマテラスの延長であって、その連枝である皇族及び臣民は、「一人残らず神様に外ならぬ国」(同上)であるとして、日本国民は天皇から皇族・国民に至るまで、天上世界の神と本源的につながった存在として語られる。
 筧によれば、神を意識する存在は人間である。さらに我々はこの宇宙のありとあらゆるものを土台として生まれた存在である。そしてその相互の存在は肉体を持ち、「一人の太郎であり弟姫である」(第三図の一参照)(同上、10頁)。しかし、我々の根源を尋ねれば、「各自は決して自分勝手に生まれ来りたるものでなく、自己の欲するがままに勝手に活きて居る者でなく、各自を超越せる大なる力に依りて活きて居ることが」わかる(第三図の二参照)(同上、10頁)。要するに筧は、人と人はそれぞれ肉体は別々だけれども、大いなる存在である神の延長としては、共通の根源を有していると述べるのである。これを筧は「相互に離れたる各自」から「神の支配の下に在る各自」位置づけている(同上、11頁)。生命のひとつひとつは「別別の生命を有する無数の人達」ではあるけれども、「其の根本に這入つて見ますれば、皆同じ大生命に帰着」する(同上、11頁)。
 生命とは、個々に別々の存在ではあるけれども、食物の連鎖などがそれぞれの生命のつながりによって成立しているように、ひとつとしてほかの生命に頼らずに生きている生命体は存在しない。そのため、「結局、一切の小生命を網羅し、一切の小生命により表現せられつつある、唯一の普遍的大生命になってしまひます」(第三図の三参照)。此の種の普遍的大生命が即ち神様であるとも申されます。」(同上、12頁)。
 個々別々の生命を存在させているのは、それぞれ別の生命の働きによってであり、この命のつながりは宇宙全体にまで広がりを持つ、ひとつの大きな大生命ともいえる(筧は明示はしていないが、日光が植物の成長に不可欠な点や、月の存在が潮の満ち干に影響を与えている点なども勘案して、宇宙全体に連なると考えているのであろう)。その普遍的大生命を称して、神様というのである。即ち、人はそれぞれ個別の肉体を持つけれども、相互の存在や宇宙大に至る大生命の影響を離れて存在し得ることはできないので、根源的に宇宙大生命たる超越的な力、すなわち神とつながりを持つと称するのである。(この点については、第三回「第三回 自我・普遍我・絶対我」も参照されたい)。
 このように、万物の「根本的に一つに成つて居る全体を神様」であると筧は論じている(同上、12頁)。神様は個人個人の立場から見た場合は、その全一の根本は「外部に超在」している(同上、12頁)。しかしながら、「是等の根源は、徒に絶対に外部に在るものではなく、能く能く各自の内部に這入り各自の生命を観まするときには、各自を超越する全一と思ひましたものが、次第に各自の生命中に入り来り、遂には全然各自中に這入つてしまひます。夫と申すも、内とか外とか申す観念が絶対的排他的のものでございませぬから、其の時時の宜しきに応じて用ひられねばならぬことに帰着」するということである(同上、15頁)。やや長い引用となってしまったが、要するに、神というものは、絶対に外部にあるのではなく、各自の内部に入り込み、各自の生命をそれぞれ観察してみると、各自を超越する全一と思い込んでいたものが、次第に各自の内部にも内在しているものであると気づくという意味である。そのため、神は外部に超越しつつも、各々の生命の内に内在する存在でもあるとみなされるのである。
 これに加えて、図に記された文言から第五図「神と人との関係 其の二」を解説する。この図には白い丸と赤く塗られた丸が記されているが、このうち白い丸が人で、赤い丸が神を表している(以下同上14頁参照)。まずはじめに、「一、神は内に輝き給ふ」は白丸の中に赤丸があるが、これは個人(太郎)の中に、神(大神)が内在していることを示す。これは人と神の繋がりをしめすと同時に、「銘銘の中に神をお宿し申して居る」わけである(同上、15頁)。独立の存在である個人は「不完全の者たることを免れぬ」のであるが、完全な存在である神がその生命の内部に輝いているのである(同上、15頁)。
 しかもこの神は「二、神は外に在ます」と記されるように、「眼を閉づれば、大神は内に在まし、眼を開けれは 大神は外に超在し給ふ」(同上、14頁)。神は、自分個人だけでなく、普く人々の中に内在している(同上、14頁)。これを筧は「各自は神と申す一つの部屋を構成せる各別の窓の如きもの」と表現している(同上、15~16頁)。これは、窓がたくさんある大きな部屋を外から眺めているさまをイメージすると分かりやすいであろう。ようするに外から見える窓の奥の部屋の様子は、それぞれ違った様子が見られるけれども、じつは根源的には同じ部屋を見ているのだということである。即ち個々人からみた神の姿はそれぞれ異なるけれども、それは根源的には同一の存在(宇宙大生命)であると説明するのである。そして「部屋と申すものは各々の窓に超越せる存在」でもある(同上、16頁)。「三、神は人に超越して在ます」で示されるように、神の存在は個人個人を超越する絶対的なものでもある。このように、神とは、人の内面に個々に内在しつつも、それは普く人々の内部に共通して存在する根源的な存在であり、その絶対的な存在の大きさから、神は外在的に見た場合超越的にもうつるのである。

 補足(「第四図 神拝により得たる全一の気分」)
この図は単に無地の円を描いたものであるが、これは神を拝むことによって得られる一体感の気分を表現したものである。図の下に文言が書かれているが、これは神を拝むことで、一切を美化しようする「平家機やすらけき気分」を得ることができる。そしてその拝む心持は、広く輝き、「有難く」また「懐かしみ思ふ心」である。また、千万の事物の始まりに、「をろがむ」(拝む)心に神がいるということ、「己が上にいます大神かしこみて」おがむ心に人は敬意を表するという意味である。要するに、神様を拝むということは、一切の事の始まりであって、その心持ちに立ち返ることによって、平常心を得ることができると筧は唱えるのである。(前回に解説すべきであったが、ここで紹介する)

 

 

 


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