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生きた哲学を楽しむ私の方法

『ロゴスドン 第78号』特集・続編

宮本 明浩(ロゴスドン編集長)

 

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ロゴスドン第78号

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『ロゴスドン 第78号』特集・続編その72

 

慶應義塾長、日本学術振興会理事長、中央教育審議会会長等を歴任され、紫綬褒章や文化功労者となられた哲学博士で政策研究所所長の認知科学者・安西祐一郎先生にインタビュー!


 

 『ロゴスドン 第77号』の発行は、2009年(平成21年)3月1日でした。この号の特集テーマを「学問論」にしたのは、当時の日本はグローバル資本主義のあおりを受けて幕末と同様な窮状に陥り、合理性のある知恵と勇気を持つ指導者と国民全体の知恵と知識が向上する教育と学問が必要とされていたからです。安西先生は当時、慶應義塾長をされていましたので、当大学の応接室でインタビューをさせて頂きました。

 

 まず最初に、「情報という考え方をベースにした一つの人間像をつくる」という小見出しを付けたお話を頂きました。その後は、「問題解決者としての人間の四つの特徴」「意味敏感性と知識の構造化可能性という人間の性質」という小見出しを付けたお話が続き、その流れで「学問にとって決定的に大切なのは方法論である」という小見出しを付けた次のようなインタビューが展開しました。

 

(宮本)これまでのお話で、安西先生が携わってこられた学問の一部を垣間見ることができ、非常に人間にとって、 社会にとって有益であると感じられました。さて、ここからは、ざっくばらんに、いろいろとお聞きしていこうと思います。まずは、実業界では大学で行なわれる学問は実社会には役に立たないと軽視する風潮がいまだにあると思われますので、ここで基本に立ち返って、学問の本質についての安西先生のお考えをお聞かせいただきたいのですが、「学問とは何か」を一言で言えば、どういうことになりますか。

(安西)「学問とは何か」について一言で言うのはほぼ不可能だと思います。「自然科学とは何か」とかでしたら、それはある程度言えるかも知れませんが。それを強いて言えば、きわめて単純ですが、二度繰り返さなくてもいいということではないでしょうか。今まで、それこそ何千年もの間、人間が考えてきたことは、かなり重なることもあり、似ていることがたくさんある。学問は、そういったことを、また新しく初めから考えなくてもいいようにしてくれるのです。人間は、ゼロから考え始めたら、一生かかったとしても、到達できるところは、たかが知れています。古今東西の優れた人たちが蓄積してきた学問を学ぶというのは、自分も含めて、多くの先達がものすごい努力をしてつくりあげた知識を、自分が新たにつくらなくてもいいということです。それが学問の意義の少なくとも一つではないかと思います。それなら、だいたい、あらゆる学問に共通した本質だと思いますね。

(宮本)安西先生がご専門の認知科学は、まだ新しい学問ですよね。

(安西)認知科学という言葉が初めて使われたのは、たぶん一九七〇年代の前半、イギリスだと思います。公刊された単行本の表題の中に「Cognitive Science」という名前が世界で初めて入ったのは一九七五年だと思います。日本で認知科学会という学会が始まったのは、一九八三年でした。私がこの分野で学問を始めたのは一九七〇年代の半ばより少し前の頃で、その当時には少なくとも日本に認知科学という言葉はありませんでした。認知科学と言うと、何か子どもを認知するための科学じゃないかと、当時はそういうふうに言われたことも多かったですね。

(宮本)心理学は今では文系の学問とされているように思うのですが、認知科学は文系と理系の両方にまたがる、いわゆる総合的な学問の一種だと考えていいのでしょうか。

(安西)認知科学は自然科学に近い方法論をもつ人間学ですね。私は、学問総合化というのは、極めて困難だと思っています。それぞれの分野で方法論も極めて異なりますからね。私は、心理学の研究もやり、それから情報科学もやり、他にもいくつかありますけれども、新しい学問の建設はむしろ方法論によって決まってくるのであって、総合的な学問の統一というのは、これはもうほとんどありえないのではないかと私の感覚では思っています。学問にとって決定的に大切なのは方法論だと私は理解しています。全部の、人間が考えるあらゆることを総合するような学問に、その学問特有の方法論がありうるか、学問というのは体系化だと思いますから、あらゆる学問の体系化の方法論というのは、それはもしあるとすれば、非常に単純な役に立たないものではないかという気がします。もしあるとすれば、教えてもらいたいと思いますが。それは自分が、いわゆる文系とされている北海道大学の社会心理学講座で教えたことと、慶應義塾大学理工学部の情報工学科で教えてきたことと、他の大学でもいくつか教えてきた経験、それからもちろん自分の研究経験からきています。文学部と理工学部の違いといったら、これは世界が違うようなもので、これをいっしょにやろうと思ったら、一人の人間が一五〇年くらい生きないと無理だと思います。

(宮本)意外と、安西先生は、学問の統合に関しては批判的なのですね。

(安西)学問の総合が簡単にできると思う考え方に対しては批判的です。若いときから記憶力もよく、ものの見方も鋭く、莫大な知識と分析力と創造力のある、そういう人がいくつかの学問領域を完全にカバーして、その上で、独自の方法論を打ち立てるということが必要だと思います。しかし、それができている人って、ほとんどいないのではないでしょうか。私は、情報の概念を用いた実証的な学問としての人間学というのは、自分の方法論としては持っ ていますけれど、だからといって、学問全部を統合できるとはとても考えられません。

(宮本)『ロゴスドン』の創刊号で、哲学者の加来彰俊先生が、「いろいろな分野でものごとの真理が明らかにされて、その知識が蓄積されたものが学問であるが、少なくとも十七世紀頃までは、哲学とはそういった諸学問の総称であった」と書いておられますが、今ではあまりにも細分化・専門化されすぎたために、専門分野以外のことを学び合うことができなくなったのではないでしょうか。

(安西)それはあると思いますが、だからといって、また、何といいますか、先祖返りをしようというのは不可能だと思います。もし本当にやるとすれば、新しい総合的な学問を建設するしかないでしょうが、それは極めて困難なことだと思います。そう考える方が常識的だと思います。自分の経験半分でものを言っていまして、あまり悲観的なことを言ってはいけないでしょうが、例えば、心理学と情報科学と両方の分野を本当に統合していこうと思ったら、心理学者とのコミュニケーション、それから情報科学者とのコミュニケーションがちゃんととれないといけません。心理学者とは、心理学の土俵でコミュニケーションをとらなければいけません。情報科学者とは、情報科学の土俵でちゃんとコミュニケーションをとらないといけません。学問の統合という時に、例えば、心理学者に対しても素人であり、情報科学者に対しても素人である、そういう中途半端なことではできません。両方に対してプロじゃなかったら、誰も受け入れてくれません。評論家としては受け入れてくれますが、学者としては受け入れてくれないでしょうね。

(宮本)ジェネラリストという呼び方がありますが、慶應義塾の創立者の福澤諭吉は、一種のジェネラリストと言ってもいいのではないでしょうか。

(安西)福澤諭吉は啓蒙家であり、日本の近代をつくろうと努力した人で、学者を超えていると思います。彼は適塾で医学・自然科学を勉強して、それから自分で政治学や経済学や法学等を勉強しました。しかし、総合的な学者になったわけではありません。どの分野の学者になったというわけでもありません。福澤諭吉は本当に突出した大きさがありますよ。

 

 その後は、「未来の先導者を育成していく慶應義塾の使命」「学問というのは、自ら沸き上がってやるものである」という小見出しをつけた非常に興味深いお話が展開していきました。

 

 この特集インタビューの全文は、『学問の英知に学ぶ 第六巻』(ロゴスドン編集部編/ヌース出版発行)の「六十九章 知力向上の学問論」に収載してありますので、ぜひ全文を通してお読み頂き、合理性のある知恵と勇気について考えて頂ければと思います。


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