【連載】

「裏日本」文化論


 

唐澤太輔

(秋田公立美術大学大学院複合芸術研究科准教授)

 

〈毎月第1月曜日更新(祝日の場合は翌営業日更新)〉

 

『生命倫理再考―南方熊楠と共に―』

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第56回

〈ばんじまして〉


 「おんぼら」と同じく島根の方言で「ばんじまして」というものがある。これは、「こんにちは」より遅い時間、「こんばんは」よりも早い時間に交わす挨拶である。昼と夜の〈中間〉で使うこの微妙さが、いかにも神道的である。夕暮れ時は、黄昏とも言う。真っ暗ではないから誰かがいるのはわかるが、明るくもないので誰かは確定はできない。まさに「誰そ彼」時なのである。もしかしたら、そこに居るのは人ではないかもしれない。出逢っているのは、人以外の魔物かもしれない。そのような意味で、この時間帯は「逢魔時」〔おうまがどき〕とも言う。人間が活動する昼の時間と、神が活動する夜の時間の〈中間〉では、両者が混在する。かろうじて区別されながらも混じり合うこの処は、哲学的にも大変興味深い。普段、気にもしない夕方の時間を、出雲の人々は大事にしてきたのだ。
 「ばんじまして」と挨拶を交わすことによって、お互いに無用な恐怖や猜疑心などを起こさずに居ることができる。それが人と神あるいは魔物との間であっても。神々の国・出雲の人々は、魔物に会っても「ばんじまして」と言って「おんぼら」にやり過ごすのではないだろうか。このような態度は、極めて「灰色」だ。つまり、人/魔物、怖い/怖くない、といった対立を、有耶無耶なままにしておく在り方である。しかし、これこそ実は最も潜在力のある状態なのである。
 漫画家の井上雄彦(1967年〜)は、我々が目にする漫画は、白か黒で描かれているように見えるが、実は、ほとんどが「灰色」だという(井上雄彦『承』日経BP社2013年参照)。つまり、真っ黒や真っ白は、画面にほとんどないということである。圧倒的な迫力で描かれる井上の漫画は、「灰色」でできているのだ。井上は、出雲大社の宮司・千家和比古(1950年〜)との対談で、千家の、日本人の優柔不断は力、エネルギーだという言葉を受け、それこそ未来への希望だと述べている。さらに、昨今、個人やアイデンティティの重要性が声高に唱えられているが、そのような「非常に強固な枠で囲われた個があるかのような概念」(前掲書p.119)とは一体何なのかと疑問を呈している。独特の描写技法と圧倒的な画力で、現実以上の「リアリティ」を描いているとも言える井上にとって、単純な黒色で縁取られた輪郭は不自然でしかないのだろう。人間というのは、そして世界というのは、もっと「灰色」で、有耶無耶なものなのである。しかし、我々は、そこに枠をつけようとする。そうしないと落ち着かないのだ。有耶無耶なままにしておくことに耐えることができないのだ。白か黒かはっきりさせ、どちらかを奪い合う。奪い合うものが「空」の「灰色」の状態を保つことは、現代社会においては、なかなか難しい。
 人間は、自と他の区別を確立させることで、自分から対象を切り離して、よく観察し分類し、法則や規則を見出すことを行ってきた。これは実に偉大な事柄であった。しかし一方で、それを徹底しすぎたが故の弊害も出てきている。つまり、人間中心主義による環境汚染や自己中心的な思考による様々な事件などであるが、その詳細についてはここでは特に触れない。また、それらの決定的な打開策を提案することもここでは行うことはできないが、唯一筆者が言えることは、神道的優柔不断さに今一度目を向けてみることの重要性である。「表日本」の行き詰まりをブレイクスルーするために、日本の内なる他者とも言える「裏日本」に目を向けるのと同じように、分類思考の「片割れ」である未分化思考へ目を向けてみることは、現代を生きる我々にとって決して無駄なことではないだろう。そして、未分化的思考のエッセンスが詰め込まれた神道、そして神話の国・出雲は、今まさに、我々の目には、魅力的に映るはずである。


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