
〈毎月第1月曜日更新(祝日の場合は翌営業日更新)〉
「取り入れ同一化」「投影同一化」の過程(プロセス)とはどのようなものであろうか。
まず「取り入れ同一化」であるが、それは、①対象と区別されてある自己が、自己自身に欠けている「何か」を対象に見出し、②それを自己へ取り込もうとする。③そして自己は対象を取り入れて同一化し、心の安定を図ろうとすることである(※しかし対象を「完全」に取り込み、同一化し、その状態に留まることは、自己と対象が共に消えてしまうことを意味する)。
熊楠の「採集」も、この「取り入れ同一化」と同様であると考えられる。例えば、熊楠と粘菌の関係で考えてみると次のようになる。①熊楠は粘菌に自己に欠けているもの、あるいは自分で認識している自己とは正反対のものを見出し、②それを「採集」することで自身に統合しようとした。③そして熊楠は、粘菌を自己へ取り入れることで、心の安定(あるいは完全性)を希求した。熊楠(自己)と粘菌(対象)は、もともと「統一された完全な状態」が分裂した関係においてあったと言える(※「完全な」同一化とは、両者が一つの場に溶け込むことでもある。そして溶け込んで一つになった場には、もはや自己も対象もない)。
では、「投影同一化」の過程はどうであろうか。①自己は、自分の心の中にある願望や衝動を対象に投影し、あたかも対象が、自己の願望あるいは自己の欠如した部分を持っているかのように知覚する。②そして、その対象と同一化するために、対象へ自己を投げ入れる。③さらに、投げ入れられた自己は対象と同一化し、心の安定を図ろうとする(※しかし、自己と対象が「完全」に同一化すると、自己と対象は溶け合い、共に消える)。
これも熊楠と粘菌の関係で考えてみると、次のようになるだろう。①熊楠は、粘菌に自分の願望や衝動(それは科学的・論理的・分析的思考を重視した熊楠〔ペルソナ〕の深層にある「アニマ」と言ってよいだろう)を投影していた。②そして熊楠は、粘菌へ入り込むように「観察」を行った。③投げ入れられた自己(熊楠)は粘菌(対象)とは同一化し、熊楠はそうすることで心の安定を得ようとした(※しかし、熊楠と粘菌が「完全に」同一化したとき〔場に溶け込んだとき〕、そこにもはや両者は存在しない)。
自己(熊楠)と対象(粘菌)は、同一化し完全性(統一)へと向う。というより、むしろ自己と対象は元来一つのものが分裂した結果なので、同一のもの(統一)へ帰還すると言うべきであろう。そして再び、自己と対象へと分裂するのである。
自立的な諸々の項は自分だけで〔自分に対して〕在る。が、この自分だけでの有〔対自存在〕はむしろそのまま統一に反照することでもあり、またこの統一は自立的な諸々の形態に分裂することでもある。
(Hegel, G. W. F. Phänomenologie des Geistes 1807、邦訳: 樫山欽四郎 『精神現象学 (上) 』平凡社 1997年p211)
同一のものが自分を二分して、対立したものになる。その対立したものは、各々で別々に自立して存在するように見えるが、他方は一方のいわば「片割れ」であり、また一方は他方なくしてはありえない。一方は他方が存在するための、他方は一方が存在するための「契機」である。そして他方が一方自身を含み持つという点において、両者は「区別であって区別でないもの」であると言えるであろう。だからこそ両者は分裂してもすぐ統一(同一のもの)へ帰還することができる。そしてこの循環(統一→分裂→区別→帰還→統一→……)は限り無く続くのである。
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