〈3、6、9、12月の第2月曜日更新(祝日の場合は翌営業日更新)〉
バックナンバー
(第24回まで哲学雑誌『ロゴスドン』に掲載)

【武田信玄公像】
甲府駅前に鎮座する武田信玄公像。信玄は1521年11月3日、甲斐守護信虎の嫡男として生まれ幼名を太郎といった。1536年に元服し、将軍・足利義晴の一字をもらって晴信と名乗った。入道して信玄を称するのは1559年頃からである。甲斐の領主となった信玄は近隣に勢力をのばし、駿河一円、信濃の大半、上野・遠江・三河の各数郡、さらに美濃・飛騨・越中にまで及んだ。信長を倒せば天下統一も目前という時、病に倒れた。

【善光寺】
信玄が上杉謙信と川中島で戦っていた時、戦火で失われるのを心配し長野市善光寺の仏像と多数の寺宝をここに移し、建物もそっくりに造らせた善光寺。豪壮な七堂伽藍は東日本最大級。現在、多くの寺宝は宝物館で拝観することができる。左右に対置された二組六躰の阿弥陀三尊像は、いずれも内刳のある桧材寄木造りの漆箔像で、作風から両者に多少の相違はあるが、浄土思想が興隆にむかう藤原中・末期の造顕と推定されている。

【善光寺銅鐘】
山梨県指定有形文化財・工芸の善光寺銅鐘。本銅鐘は、1313年に補鋳されたことが銘によって知ることができる。1179年と1267年の善光寺火災の折、火を受けて、その都度修理されている。鐘の周囲は4つに区分され、八葉複弁(蓮の花)をきざんだ撞座があり、鐘乳は総計100個つくられている。鐘の肩の部分は大変力強く、鎌倉時代の風格を表わしている。この鐘も信玄によって長野市善光寺より移されたものである。

【信玄火葬塚】
武田信玄の遺体を火葬にした場所である、信玄火葬塚。1573年4月に京にのぼる途中の信州伊那の駒場の陣中で亡くなった信玄を、ここに運び込み火葬した。信玄の死は遺言で3年間秘密とされ、謎が多く墓といわれる所も京都までの道などに10カ所以上ある。この地はもと魔縁塚とも呼ばれ、人々に恐れられたこともあり、長年調査はされなかった。江戸時代に甲府代官の中井清太夫が初めて発掘調査をし、石棺が発見された。

【河尻塚】
信玄火葬塚のすぐ近くにある河尻塚。河尻塚は別名「逆さ塚」とも呼ばれ、織田信長の武将・河尻秀隆が逆さに埋められたと言われている首塚である。河尻秀隆は信長が武田氏を滅ぼしたのちに甲斐国を支配したが、恵林寺の快川(かいせん)和尚を焼き殺すなどの横暴をきわめたために、本能寺で信長が明智光秀に滅ぼされると、秀隆も甲斐の民衆に討ち取られ、ここに埋められた。この土地は現在、武田神社の所有地になっている。

【円光院】
信玄の正室・三条夫人の菩提寺、円光院。躑躅ケ崎(つつじがさき)の麓にあるが、もとは小石和(笛吹市石和町)にあり、成就院といった。信玄がここに移し、甲府五山の一つとした。三条夫人が50歳で亡くなると、信玄はこの寺を夫人の菩提寺とし、ここに葬った。その際、夫人の法名にちなんで寺号を円光院と改めた。夫人の墓は本堂裏手の墓地の奥まったところにある。当寺には信玄の遺言により納められた勝軍地蔵像などがある。

【三条夫人の墓】


【武田神社】
武田信玄公を祀る、武田神社。武田信玄の父・信虎が1519年に築き、信玄、勝頼の3代に渡って武田家の居城となった躑躅ケ崎館の跡地に建立された。武田神社創建のきっかけは、明治13年の明治天皇の山梨へのご巡行だった。その際、信玄の勤皇心が厚かったことや墓地が荒廃していること、信玄の正室が随行している三条実美公の祖先の三条家から降嫁していることなどを耳にした明治天皇が金一封を出され造営発起人会が誕生した。
116-0012 東京都荒川区東尾久2-45-6-7F (TEL)03-5901-5880
Copyright(c)Nu-su Publishing Inc. All Rights Reserved.