魂の原風景・フォトサロン

 

フォト・キャプション/山下 克己

 

〈3、6、9、12月の第2月曜日更新(祝日の場合は翌営業日更新)〉

 

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(第24回まで哲学雑誌『ロゴスドン』に掲載)

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第28回

上越展
 

 毘沙門天の化身として「義」のために戦った上杉謙信ゆかりの地・上越。寝返りや陰謀がはびこる戦国時代にあってはかなり異色の武将で、「毘」の一字を染め抜いた軍旗を翻し、白布で頭を包んだ僧衣姿で陣頭を仕切ったといわれる。カリスマ的な魅力を放つ謙信は、織田信長と交わした「手取川の戦い」でも勝利を収め、超人的な強さを誇った。しかし、天下争奪には興味がなく、「世の秩序を正すため」という大義のもと、私利私欲の戦いは行わなかったという。


【上杉謙信公像】
春日山神社の参道脇に立つ上杉謙信公像。越後守護代の末子として生まれ、7歳で林泉寺に入り、名僧・天室光育から厳しく文武の道を習う。14歳で元服し長尾景虎と名乗り、19歳で越後守護代になる。以後、越後統一、信濃・関東・北陸への出兵が生涯続く。1561年に鎌倉の鶴岡八幡宮で上杉姓と関東管領職を上杉憲政から譲られ、上杉氏を名乗ることになる。2度にわたって上洛し、天皇や将軍に拝謁して深く信頼された。


 

【春日山神社】
上杉謙信公を祭神とする春日山神社。旧高田藩士の小川澄晴が初代逓信大臣・前島密の協力を得て、米沢上杉神社より上杉謙信公の御分霊を迎え奉り、老母屋敷とも上杉謙信生誕の地と伝えられる春日山城の曲輪の一角に建立した。社殿は神明造りで、拝殿のケヤキ材、格天井の松材は春日山城内に生育していた物を使用している。正面の春日山神社の額は小松宮彰人親王の頁筆だ。日本近代童話の父と呼ばれる小川未明は澄晴の長男である。


 

【春日山城跡】
一度も敵に攻められたことがない難攻不落の山城・春日山城跡。標高は約180メートルで、写真は本丸・天守台跡である。自然の起伏を活かした土塁や空堀の遺構が数多く見られる。また、謙信が出陣前に戦勝を祈願した毘沙門堂、どんな渇水でも涸れることなく今も満々と水をたたえる大井戸、謙信の跡を相続した上杉景勝の屋敷跡、上杉家の重臣・直江兼続(かねつぐ)の屋敷跡、悲運の死を遂げた三郎景虎屋敷跡などもある。

 

【毘沙門堂】

 

【大井戸】

 

【毘沙門天の御加護による勝利を願った上杉軍のシンボル】


 

【春日神社】
山城の鬼門を鎮護する、越後守護上杉氏の氏神・春日神社。958年、奈良春日大社の分霊を祀るため春日山の山頂に創建された。長尾高景が春日山城を増築する際に鬼門にあたるため、この場所へ移したといわれている。謙信が崇めたとされる菅原道真公天満宮も祀っている。当神社は、地域一帯の鎮守様として崇め奉られている。参道の両側には鬱蒼とした杉の老木が生い茂り、1000年以上の神社の歴史を感じさせてくれる。


 

【御館跡(おたてあと)】
御館の乱の舞台となった御館跡。1578年に謙信が亡くなると、養子である上杉景勝と三郎景虎が跡目を争ったのが御館の乱である。三郎景虎のたてこもる御館(前関東管領上杉憲政の館)を景勝軍が総攻撃し、落城した。この乱で、安国寺・至徳寺などの名刹や府中の町6000軒が焼けたといわれている。三郎景虎は北条氏康の七男で、相越同盟の人質だったものを謙信が養子とした人で、美男であったといわれている。


 

【林泉寺】
謙信の祖父・長尾能景(よしかげ)が父の菩提を弔うために創建した長尾氏の菩提寺であり、謙信が7歳から14歳まで修行を積んだ林泉寺。戦国の武将としては教養が高く信仰心が深いのはこの時代に培われたものだとされている。惣門は春日山城から移築したといわれ、山門は鎌倉時代の様式を取り入れた大正14年建立の名作である。境内の墓地には謙信の墓や堀家三代の墓、川中島戦死者供養塔などがある。

 

【林泉寺惣門】

 

【林泉寺山門】

 

【川中島戦死者供養塔】

 

【上杉謙信の墓】


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