魂の原風景・フォトサロン

 

フォト・キャプション/山下 克己

 

〈不定期更新〉

 

バックナンバー
(第24回まで哲学雑誌『ロゴスドン』に掲載)

HOME

第31回

会津若松展
 

 約420年前に蒲生氏郷(がもううじさと)によって東北随一の城下町として整備された福島県の会津若松。蒲生は若い頃、織田信長に非凡さを認められ、将来は信長の後継者とさえ目された名将だった。信長の三女・冬姫を妻にもらい受け、生涯において信長の影響を強く受けている。
 戊申戦争によって町は一時焼失したが、その後、福島県の中心都市として復興。最後まで抵抗をやめなかった白虎隊が貫いた会津魂を感じることのできる足跡が今もしっかりと残っている。


【鶴ヶ城(若松城)】
会津若松のシンボル・鶴ヶ城。南北朝の頃に葦名氏によって築かれた黒川城は、1592年に蒲生氏郷が七層の天守閣を築き城郭は甲州流の縄張りを用いて整備し、黒川の名を若松と改め、城の名を鶴ヶ城と命名。1639年、加藤明成が七層の天守を五層とし、北馬出、西馬出を北出丸、西出丸に改築し現在の形態となる。戊辰戦争の戦場となり自刃した白虎隊士をはじめ、会津藩士たちの魂を支えた名城だ。日本唯一の赤瓦の天守閣である。

 

【武者走り】
この石垣は、鶴ヶ城の大手門の渡りやぐらなどへ簡単に昇り降りができるように造られている。V字型に造られており、武者走り(むしゃばしり)と呼ばれ鶴ヶ城の石垣の特色の一つである。また、地表面での占有面積も少なくすみ、石積みについての当時の知恵がうかがえる。

 

【鐘撞堂】
時守を置いて昼夜時刻を城下に報じていた堂で、その鐘は1747年、若松の鋳工・早山掃部介安次(そうやまかもんのすけ)等の作として知られ、鐘の撞き方は江戸流だった。戊辰戦争時には、ここに西軍の砲火が集中し、時守が相次いでたおれたにも関わらず、開城の最後まで正確に時を報じ、大いに味方の士気を鼓舞した。

 

【馬洗石】
本丸南側土手側に藩主が馬術を稽古するための馬場があった。この石は、馬の口洗いのために用いられたと伝えられている。

 

【荒城の月碑】
名曲『荒城の月』が鶴ヶ城と青葉城をモチーフに作詞されたことは、土井晩翠氏を招いた昭和21年の音楽祭で明らかとなった。翌年、有志により詩碑建設会が設立され、土井夫妻を招いた盛大な除幕式が行われた。この詩碑には土井氏直筆による荒城の月1番〜4番までの歌詞が記されている。「春高楼の花の宴〜」と今日のように桜の花が咲き乱れる「花の鶴ヶ城」にしたのは会津松平家からお城の管理を任された遠藤十次郎の尽力だった。

 

【茶室・麟閣(りんかく)】
千利休の茶道を受け継ぐ茶室・麟閣。千家流茶の湯の開祖で侘茶(わびちゃ)の大成者である千利休(せんのりきゅう)は、1590年に豊臣秀吉の怒りに触れ翌年自刃した。その時の会津領主・蒲生氏郷が、利休の茶道が途絶えるのを惜しんで、その子・少庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家復興を秀吉に願い出た。その結果、少庵は京都に帰って千家を再興。その少庵が蒲生氏郷のために造った茶室と伝えられている。

 


 

【御薬園】
歴代藩主の別荘として親しまれた庭園・御薬園(おやくえん)。会津藩2代藩主・保科正経(まさつね)が、1670年、ここに各種の薬草を栽培したのが始まり。3代藩主松平正容(まさかた)の時、近江より目黒浄定を招き本格的な遠州流の庭がつくられた。朝鮮人参を試植し、のちに会津全土へ広く奨励し「御薬園」と呼ばれるようになった。歴史を経ている薬草園として東北でも貴重なものとされている。

 

【重陽閣】
昭和3年に秩父宮妃勢津子殿下ご一家が宿泊した新瀧旅館別館を昭和48年に移築したもので、建物の名前は御誕生日が9月9日であったことから「重陽閣」と命名された。

 

【楽寿亭】
藩主や藩の重役たちが、納涼・茶席・密議などのために用いた、楽寿亭(らくじゅてい)。1696年に建てられ、楽寿亭の名は3代藩主・正容によって命名された。北側の濡縁には戊辰戦争の際の刀傷が今も残っている。

 

【御茶屋御殿】
主に藩主の休息の場として利用された。上ノ間、次ノ間、扣ノ間からなり、質素を旨とする藩主の意図から規模狭小、古木素材を用いている。戊辰戦争の時には、新政府軍の療養所となり、のちに会津松平家最後の藩主・容保(かたもり)も、ここを住まいとした。

 

【朝日神社】
今から620年以上前の至徳年間に朝日保方という白髪の老人が、病気で苦しむ農民を鶴の舞い降りた泉の水で救ったとされている。農民はこれを喜び、祠を建てて朝日神社とし、この霊泉を鶴ケ清水と名付けたといわれている。

 


 

【会津武家屋敷】
7千坪の敷地には38もの部屋を擁する会津藩家老・西郷頼母(たのも)邸を中心に、藩米精米所、旧中畑陣屋、茶室嶺南庵などの歴史的建造物が建ち並んでいる。西郷頼母邸は江戸時代中期の和洋建築の粋を集めた豪華かつ壮大な家老屋敷である。各室には武具、調度品を展示し、冬期間は中に入ることができる。西郷家は、代々家老職を務め1700石取りの家柄だった。戊辰戦争の際の西郷一族21人自刃の悲話は今に語り継がれている。

 

【自刃の間】
1868年10月8日早朝、西軍は会津城下に総攻撃を開始。城より全員登城の命が下るが、西郷家の婦女子は「足手まといになるまい」と考え、この部屋で自らの命を断った。

 

【容保公接見】
家老屋敷を訪れた藩主・松平容保公に、屋敷の主人・西郷頼母が挨拶している場面。

 

【西郷四郎像】
山嵐という得意技で無敵を誇った姿三四郎のモデル・西郷四郎像。会津藩士・志田貞次郎(ていじろう)の三男として生まれたが、明治17年に西郷頼母の養子となった。父・頼母は文人として伝えられているが、文武兼備の人で剣術は溝口派一刀流を学び、甲州流軍学の奥義を極め、合気術の秘伝を受け継いだ人でもあった。その養子・四郎の山嵐は、頼母から大東流武田惣角に手ほどきされたのが基本になっているという。

 


 

【近藤勇の墓】
新選組隊長・近藤勇の遺体は東京三鷹市の龍源寺に埋葬されたが、首は京都の三条大橋下流にさらされた。しかし、何者かが持ち去り、この地に埋めたと言われる。この墓は会津藩の手によって建立されたが、それは会津藩主・容保公が京都守護職中、新選組はその支配下にあり、挺身幕府のために力を尽くした為である。また、土方歳三など一行が会津に来て戦闘に参加した際、この墓を参詣したと伝えられている。

 

【近藤勇・辞世の詩碑】

 


 

【旧滝沢本陣】
滝沢本陣は1678年の建築で、この地方の郷頭を勤めた横山氏の住居だった。会津藩主が参勤交代や領内巡視の際などに旅装を解いた本陣でもあった。戊辰戦争では会津藩の本陣となり、藩主・松平容保が1868年10月7日、白虎隊に出陣を命じた場所である。ここでも土方歳三率いる新選組が、容保公や白虎隊を護衛して大いに活躍した。御座之間、御次之間には今も当時の砲弾の跡や刀傷が十数カ所も残り、そのまま保存されている。

 


 

【白虎隊記念館】
白虎隊自刃の地・飯盛山にあり、戊辰戦争時の実戦に使われた武具など、白虎隊士の遺品や資料のほか、会津藩、来援の新選組、敵方の西軍の資料など12000点を収蔵。両軍の大砲や史実に基づいて描かれた9景のパノラマも見物。記念館の資料は、唯一生き残った白虎隊士・飯沼貞吉が、白虎隊の悲劇を後世に伝えた功績によるところも大きい。他の隊士同様、貞吉も喉に刀を突き刺したが絶命には至らず、奇跡的に命をとりとめた。

 


 

【白虎隊士の墓】
正面の墓は、1868年(明治元年)の戊辰戦争において飯盛山で自刃した19士の墓。10月8日、自刃した隊士の遺骸は、西軍により手をつけることを禁じられていた。約3ケ月後村人により、密かにこの近くの妙國寺に運ばれ仮埋葬され、後この自刃地に改葬された。現在の形に19士の墓が建てられたのは明治23年で、2度にわたり墓域が拡張された。右側の墓は、会津の各地で戦い、亡くなった白虎隊士31名の墓である。

 

【松平容保公弔歌の碑】
戊辰戦争当時、自刃した白虎隊士の殉難忠節に対し、9代藩主・松平容保公が次の弔歌を詠まれたのを、現・河東町八田野の篤志家八田宗吉氏がこの碑に刻み建てたもの。
  「幾人の涙は石にそそぐとも
     その名は世々に朽しとぞ思う」

 

【会津藩殉難烈婦の碑】
この碑は、戊辰戦争で自刃又は戦死した婦女子二百余名の霊を弔うため、昭和3年4月、旧藩士・山川健次郎氏(元帝大総長、理学博士)等の篤志家によって建てられた顕彰碑である。

 


HOME
株式会社ヌース出版
107-0062 東京都港区南青山2丁目2番15号 ウィン青山942
(TEL)03-6403-9781 (E-mail)logosdon@nu-su.com

Copyright © Nu-su Publishing Inc. All Rights Reserved.