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1933年の自動車交通事業法整備と「一路線一事業者」の原則で、路線バス事業者の統合が進む。そして第二次世界大戦に進んだ。戦時中の路線バス事業の統合は、国家総動員体制の一環としてなされた。その目的は資源の効率的な利活用と輸送力の確保の両立であった。路線バス事業は地域の足として期待を集め、昭和初期には国内各地にその可能性を感じた中小バス事業者が乱立する結果になった。しかし結果的にそれは、寡頭競争や経営不安定化につながり、路線バス事業全体の問題になっていった。いわば路線バスの戦時統合は、公共交通事業者乱立と非効率性解消が主目的であった。路線重複やサービスの質のばらつきも問題として顕在化し、路線バス事業のクオリティコントロールも問題になった時期である。そうして、1938年に公布された陸上交通事業調整法、1940年の陸運統制令で鉄道・バス等の陸上交通機関の整理・統合が政策的に推進された。1941年以降、国家総動員法に基づく戦時体制が強化され公共交通事業も対象となり、統制経済の渦に路線バスも飲み込まれた。黎明期に見られた個人事業者や零細バス事業者が、残念ながらこの時期までに淘汰された。
無論、戦争中であるため資源の節約と輸送力の集中という効率化が目的であったことは想像に難くない。戦争による燃料への懸念、資材の不足深刻化への懸念の中、路線バス事業の統合はガソリン消費抑制、バス車輛と従事人員の効率的運用を目的としていた。戦時下ではタイヤ等の物資も統制されバス事業者に代燃車(木炭車)への転換や運行制限が課された。1940年9月11日には、商工省が営業バスの7割を代替燃料にするよう禁令を発し、更に翌1941年9月1日から、代用燃料を利用するバスのみに営業許可を出すこととしている。この結果として、日本の各地で木炭を燃料とする路線バスが一般的となり普及していった。
結果的に、戦争後半の1943年には、政府主導でバス事業者の大規模統合もなされた。各エリアで1乃至3社程度に集約されて現在のバス事業者の勢力分布にかなり近づいていく。ただし、統合が進み同一エリア内での経営安定化が図られたが、一方で地域内でのサービスの硬直化が新たな問題として浮上した。競争原理が働かなくなるマイナスの面も露呈した。戦時中の路線バス事業の統合は、戦時下での国家的要請に基づくものであった。但し、皮肉にもその影響としてサービスの硬直化、地域内での独占的経営を長引かせる結果となった。
路線バス事業の戦時統合は、民間同士の統合化が基本であった。函館市や秋田市のように公営事業者が民営事業者を買収・統合する事例、八戸市や富山市のように公営事業者が民営事業者に統合される事例も多くないが存在した。そうして1事業者の規模は大きくなった。
終戦後には、統合されたバス会社の再分割や民営化が進行した。戦後の経済的混乱とインフレの中、ドッジ・ラインによる経済安定政策が実施され企業の合理化も進んだ。地方鉄道事業者及び軌道会社が、路線バス事業に参入する動きも見られた。例えば、戦後のGHQによる民主化政策の一環として、企業の過度な集中を避ける目的で、1947年6月には、近畿日本鉄道(近鉄)の一部が、南海電気鉄道として事業譲渡された。GHQからいわゆる大東急も分割が求められ1948年6月1日には、東京急行電鉄が今でいう小田急電鉄、京王電鉄、京浜急行電鉄と東急電鉄に分かれた。京阪神急行電鉄も現在の京阪と阪急に分離となった。鉄道事業が分割となり、そのエリアに沿って鉄道事業者系路線バス会社が形成されていく。
戦後となって1950年代から1960年代前半には路線バスの輸送人員も右肩上がりとなる。観光輸送や団体輸送も増えて貸切バスの旺盛な利用が加わり、バス黄金時代に入っていく。1950年代も後半になると、一部の大手私鉄が観光開発と共に系列の路線バス事業者を地方に展開する。東京急行電鉄の系列事業者は北海道・信越に増え(定山渓鉄道や上田丸子電鉄等)、名古屋鉄道は東海・北陸に路線バス事業者(岐阜バス・福井鉄道等)を展開した。1960年代に入ると、隣接する事業者同士の広域的合併が自ずと活発となる。これは戦時と異なり事業者の経営合理化や競合排除を目指したものである。結果的に、現在の路線バス事業者の勢力分布の形成がさらに進んだ訳である。戦後には新たな公営バスも誕生し活況を呈した。戦時に軍需産業等で栄えた工場が民生転換していき、工業地帯労働者での大量通勤輸送に路線バスが期待された。今の路線バスの厳しい経営状況からしたら驚く様な需要であった。他にも同時期には、郊外エリアでも西東京バス(多摩地区の奥多摩振興、五王自動車、高尾自動車の合併)や、関東鉄道(茨城の常総筑波鉄道と鹿島参宮鉄道が合併)のように事業者の再編が進み合理化の基礎となっている。しかし1960年代後半ごろから、マイカーも普及し路線バスの輸送人員が次第に減っていった。マイカー以外にも、鉄道路線の拡充、高度経済成長下で都市部に労働力が流出して地方で過疎化が進んだことが、人員低下の要因にある。そうして1970年代に入るが、地方部での路線バスの運営が少しずつ難しくなっていった。

図2-10 1960年代に入ると旺盛な路線バス利用に対して全長約12m、定員110人クラスの3軸大型路線バスも登場する。旭川電気軌道の三菱ふそうMR430(1963年式)はその活躍の生き証人として保存される。

図2-11 東急の電車とバスの博物館では、1960年代の路線バスワンマンカーとして、帝国ボディの日野RB10が保存される。1965年式でワンマンカー黎明期の車輛でもある。1961年4月15日に東急バスがワンマンカーの運転を開始した。
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