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2.1 明治期の動向
明治期になると、各地で乗り合いの乗り物への期待が高まってくる。例えば、有名観光地である神奈川県の箱根町では、幕末から明治初期にかけて、温泉へ湯治に訪れる外国人が出始める。外国人の国内旅行は、1874年(明治6年)に「研究・養生のため」という条件付きで許可される。1879(明治11)年には、政府で働くお雇い外国人の国内旅行が、大幅緩和となる。結果的に、明治10年代~明治20年代にかけて箱根の温泉に多くの外国人が訪れるようになる。温泉への入浴に対しては当時諸説あったが、医学者のベルツが温泉を活かした療養や健康法を同じ頃に提唱した。そのため、今の箱根駅伝のルートとして知られる箱根の宮ノ下~芦之湯あたりを訪れる外国人、日本人が増えた。明治中期の宮ノ下には計9軒の温泉宿が存在した。外国人宿泊客は、生活習慣もあり騎馬や駕籠での移動を苦手とした様である。そこで、図2-1に示すような「チェア」という担ぎ棒を付けた椅子が、外国人向けに発案され、移動を支援した。筆者が神奈川県西部在住のために箱根町の例を挙げたが、今の温泉をウリにした観光立国である日本の基礎は、明治中期に確立され始めていたのである。
外国人が日本に入り始め、日本人も以前より旺盛な移動を始めるようになる。そうなると個人での移動より、各地で乗り合いでの移動による効率的な移動が求められるようになる。既に海外では、路線バスの世界的な起源とされる世界初の乗合馬車が、1662年のフランスで哲学者ブレーズ・パスカルにより導入されている。運賃に基づき「5ソルの馬車」と言われた。定員8人の馬車を用いて、一定の路線を時刻表に従い運行したもので、まさしく乗り合いバスのベースとなるものであった。当時は、タクシーの起源である辻馬車も活動の幅を拡げており、競合も多く見られ乗合馬車は日の目を見ることが無く1677年には一旦廃止の憂き目にあっている。なお当時のフランスでは、都市間・地域間の中・長距離で運行される駅馬車も存在している。都市内の短距離で運行される乗合馬車が路線バスの起源、長距離の駅馬車の方を都市間高速バスの起源のようにとらえると、現代人には理解しやすいと思う。なお、乗合馬車をフランス語ではオムニビュス、英語ではオムニバス(共にomnibusと表記)と呼ぶようになり、乗合馬車こそ後に世界各地で「バス」と呼ぶようになった語源となった。更に、乗合馬車を路面に敷かれた軌道上を走行するようにしたものが馬車軌道で、路面電車の起源となった。乗合馬車が今の公共交通に与えた影響は極めて大きいと言える訳である。
フランスで乗合馬車が最盛期を迎えたのは19世紀である。1820年代には、その効果が見直され再度都市交通のシーンに投入された。人口増加、産業発展、道路改良を背景に、運賃の支払能力を持つ中産階級層(いわゆるプチ・ブルジョワ)の出現が後押しした。では、日本ではどうなったか。日本での乗合馬車は、1880年代に全国に広まる(図2-2)。特に、横浜は日本の乗合馬車の発祥の地とされており、フランスから60年程度後塵を拝する様相だった。
乗合馬車の世界的な隆盛を横目に、蒸気自動車の研究開発も進んでいた。1799年、イギリスのエンジニアであるトレビシックが、高圧蒸気機関を用いた人が乗れる蒸気自動車や10トンの鉄を約16キロ先まで運べる蒸気機関車を開発した。更に、1888年にはフランスの発明家であるレオン・セルポレーが、高圧蒸気を短時間で作れるフラッシュ・ボイラーを実用化している。蒸気自動車の稼働にかかる時間の短縮化に成功している。1800年代初期~中期は、蒸気自動車の実用化に世界的な関心が向いていた訳である。無論、日本でも蒸気自動車への関心が高まっていった。ちなみに、1870年にオーストリアのジークフリート・マルクスが、ガソリン自動車を発明している。ガソリン自動車時代が幕を開け、1876年にドイツのニコラウス・オットーがガソリンエンジンを開発した。これを受けドイツのゴットリープ・ダイムラーは、2輪車や馬車に改良したエンジンを取り付け、1885年には特許を出願している。同じくドイツのカール・ベンツも、同じ頃にエンジンを載せた3輪自動車を製作し、ガソリン自動車の特許を取得している。1900年前後から、蒸気自動車のメーカーはガソリン自動車開発へ移行し始める。欧州では19世紀後半に自動車技術が大きく動いた。
そうした中、日本では、1903(明治36)年の9月20日に、蒸気自動車を改造し6人乗りにした車が京都の堀川中立売~七条駅、堀川中立売~祇園の間で運行されるようになった。これがいわゆる二井商会による乗合自動車の初の運行であり、これを日本のバスの誕生日とする説が有力である。9月20日に全国各地のバス協会が、バスの日を記念したイベントを開催しているが、この1903年9月20日にちなんだものなのである。なお、明治時代であるからには乗合馬車屋が当然ライバルとなり、運行の妨害も受け、車輛の故障も相次いだという。二井商会の運行は1904年1月に車輛故障や不況等の影響で運行を休止している。
一方、広島県の横川駅前には「日本最初の国産バス(可部と横川を結んだのでかよこバスと呼ばれる)」の復元車輛が展示されている(図2-3)。こちらは、京都の後の1905(明治38)年の運行開始である。しかし、ベース車が日本車輌製で12人乗りであることから、こちらを「日本最初のバス」として推す向きも専門家の中にはある。こうして明治も後半になると日本にも乗り合いバスが走り始め、効率的で効果的な運行へ関心が高まっていくのである。
図2-1 箱根で外国人の移動支援に活躍したチェア(箱根町立郷土資料館で許可を得て撮影)
図2-2 日本での乗合馬車のイメージ(岩手県盛岡市内での復活実験のイメージ)
図2-3 広島・横川のかよこバスのレプリカ
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