【連載】

日本のバス事業

西山 敏樹
(東京都市大学 都市生活学部 教授)

 

<毎月第1月曜日更新(祝日の場合は翌営業日更新)>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第4回

2.3 昭和期の動向(1:昭和初期から第二次世界大戦に入る前まで)



 1923年9月1日の関東大震災は東京の都市機能を麻痺させて、公共交通にも深刻な打撃を与えた。しかし弱みを強みに変える方向へ政策も動いた。応急措置だった「円太郎バス」は、現在の都営バスの起源として大正末期から次第に機能していく。併せて、横浜市電気局は被災した市電を補完するバス事業を開始するし、1928年11月10日には横浜市営バスを計7路線で営業開始している。まさしく関東大震災は、都市内の公共交通のあり方を考えるきっかけになった。首都圏では、震災を契機として公営バス事業が成長する流れとなった。大正時代に全国でバス事業が盛んになり、昭和に入ってもその勢力は拡大の傾向となった。事業者同士が合併や統合を繰り返し、地域の主要な交通手段として一層発展を遂げていく。
 
 車輛の面では、輸入されたトラックを旅客運送に使う事例も多かった。しかし昭和も10年くらい進み、1935年頃になると信頼性の高い輸入車と共に、国産車も民間事業者に採用されるようになる。名古屋市のJR東海「リニア・鉄道館」には、国鉄バス第一号車が展示される。現存する最古の国産エンジンバスとして、2021年10月に国の文化審議会による答申で重要文化財に指定されることになった。バスの重文指定は初である(図2-6・図2-7)。当時国鉄バスでは、国内自動車産業の育成の視点で国産車輛を使用することになった。国鉄バス第一号車は1930年12月に開業の最初の国鉄バス(省営自動車)の岡崎~多治見間57.1km、及び瀬戸記念橋~高蔵寺間8.7kmの岡多線に導入された7台の内の1台である。
 
 エンジン車と共に、トロリーバスという方式も出て、電気を効果的に活用していく流れも出る。当時のトロリーバスは、「無軌道電車」とも呼ばれた。既に都市交通手段として路面電車が登場しており、対比してわかりやすい「線路の無い電車」という表現で認識され定着した。その歴史は、1928年8月1日に運行を開始した「日本無軌道電車」が起点となる。
 
 今の兵庫県宝塚市ならびに川西市で、温泉・遊園地の「新花屋敷」のアクセス路線に活用された(ただし会社の倒産で、約4年で廃止)。日本無軌道電車の開業前、1912年には東京市電気局(今の東京都交通局)、1926年には日立製作所がトロリーバスを試作しており昭和初期に漸く花開く結果となった。1928年4月1日には、京都市電気局が、トロリーバスを四条大宮と西大路四条の間で初めて運行した。日本で2番目のトロリーバスの開業である。
 
 国内初のトロリーバスは、温泉や遊園地のアクセス路線であり、些か都市生活とは離れたものであった。その意味で、京都市による2番目のトロリーバスは、都市生活の支援という観点で意義深いものとなった。トロリーバスは路面電車の様に軌道を建設及び維持しなくてもよく、バス車輛の技術も活かせるので、イニシャルコスト及びランニングコストが路面電車と比較して安いと判断された。当時、すでに都市では路面電車が活躍していたが、将来性の観点でこのままで良いのか?という政策的な議論があった。エンジン車の性能が良くならない中で、路面電車と通常のエンジンバスの良いところをとった中間的な存在のトロリーバスに白羽の矢が立ったのである。京都市の事例に倣い、1943年5月10日は愛知の名古屋でトロリーバスが採用された。戦時中にはガソリンの供給停止が起こり、木炭バスでの出力不足もわかりトロリーバスが採用されている。トロリーバスは架線関係の維持等で賛否がある乗り物であるが、戦前と戦中ではまずは試してみる方向になっていったのだ。
 
 トロリーバスやエンジン車をあわせながら、昭和初期には東京圏以外でも公営交通事業者により、市電の補完的手段として公営バス事業が続々と開始された。全国的に都市部でのバス事業が拡がりをみせたのは昭和の初期である。1927年2月26日には大阪市営バスが営業開始、1928年5月10日は京都市電気局が京都市バスを営業開始している。更に京都と大阪の周辺大都市でも動きが出る。名古屋市電気局が1930年2月1日に名古屋市営バスを営業開始しているし、神戸市電気局も1930年9月16日には神戸市バスを開始している。
 
 ただし昭和初期にはバス事業者の乱立という問題も発生した。ゆえに1933年に、自動車交通事業法が整備されて「一路線一事業者」の原則が示されて、バス事業者の統合も進んでいった。事業者の乱立は、サービスの競争という観点で望ましいようにも思うが、一方では寡頭競争を生み事業者間の過度な競争は、業界全体の疲弊にもつながる。当時は、こうした問題点や戦争への突入を考慮し、一地域一事業が旨とされ政策的にも統合が進んでいった。
 
 そして第二次世界大戦に、本格的に日本は突入していった。1940年9月11日、商工省は営業バスの70%を代替燃料にするよう指示し、1941年9月1日からは代用燃料を利用するバスのみに営業許可を出すことにし、結果的には全国で木炭燃料のバスが一般的になった。ちなみに木炭車のバスは全国的にも2台の有名な保存車がある(図2-8・図2-9を参照)。
 

 

図2-6 JR東海「リニア・鉄道館」に保存される国鉄バス第一号車のフロント

 

図2-7 JR東海「リニア・鉄道館」に保存される国鉄バス第一号車のリヤ

 

図2-8 神奈川中央交通の木炭バス「三太号」

 

図2-9 大町エネルギー博物館の日本唯一の薪バス「もくちゃん」


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