【連載】

『名曲奇譚』

鈴木 康央

 

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『甦った三島由紀夫』

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第5回

第3話   「ヴァイオリン協奏曲第八番」 (その一)

 

 ある晩秋の逢魔が時、ウィーンのとあるアパートの一室からヴァイオリンの調べが流れている。その繊細にして大胆な楽想と超人的なテクニック、世界中探したって彼の他にいるわけがない。
 ニコロ・パガニーニ、一七八二年イタリアのジェノヴァ生まれ。幼少の頃よりヴァイオリンの神童と謳われ、自ら作曲した作品は当人以外は演奏不可能と思われたほどの超絶技巧を要するものであった。その「神の手」はまた「悪魔の手」とも言われた。近年パガニーニを研究している医学関係者たちも、彼が関節過伸展症であった可能性が高いと指摘している。関節過伸展症とは、遺伝的な染色体の異常によって文字通り関節が伸び過ぎる症状で、彼の左手の親指は難なく手の甲にくっつけることができ、同一ポジションのまま三オクターブ弾きこなせたという。
 また肖像画や文献から察して、その容貌も鷲鼻、突起した顎、窪んだ眼窩と、かなり特異なものであったようだ。さらに彼は演奏中肩までかかる長髪を振り乱しながら、長身をゆらゆらと陽炎のようにスウィングさせながら弾いていた。黒い燕尾服に包まれたその姿は正に「悪魔」であったろう。
 パガニーニには遊蕩と賭博癖があった。そのため正妻にも愛人にも逃げられ、その後はヴァイオリン一挺を携えてベルリンやウィーン、パリ、ロンドンとヨーロッパ中を一人遍歴していた。行く先で演奏会を開いては一夜にして多額の報酬を手にした。しかしその金もまた一夜にして酒と博打で消えることも度々であった。けれども寝床さえあれば----時には一夜の愛人とともに----どんな地であれ、何の不自由も不満もない人生を享楽していた。
 しかしながら、そんなパガニーニにもただ一つ気になることがあった。それは一人息子のアキレのことである。逃げた細君には何の未練もなかったが、幼い、かわいい盛りの息子の面影は脳裡に焼きついて離れなかった。そして丁度今のように、軽く自作のおさらいをしてベッドに腰掛けて一息ついたような時に、その面影が鮮明に浮かび上がってくるのであった。
「アキレはどうしているかな」
思わず溜息とともにつぶやいた。するとあたかもそれが合図であったかのように、まだ灯りをつけていない薄暮の部屋の空気が一瞬揺れ動いたのを、パガニーニは確かに感じ取った。何かが部屋の中に入ってきた気配であった。ドアも窓も閉まったままなのだが、部屋の中の空気が何モノかで重く感じられた。
 壁に掛かっている鏡に目をやると、半ば闇に溶けた自分の顔がこちらを見て笑っていた。と、いきなりその顔が鏡からぬうっと出て来て、そのまま肩、腕、そして胴から足の先までずるずると抜け出した。
 さて今パガニーニの前に立っているこの男、普通の人間であるわけがない。実はこいつ、西洋では昔からお馴染みの------と言ってもその姿を実際に見たことのある人間はごく少数であろうが------悪魔であった。
 なるほどパガニーニとかなり似ている。頭部の骨格など殆んど同形と言ってもよい。悪魔の耳や鼻は結構特徴的なのだが、パガニーニのも遜色ない。たださすがに口は悪魔の方が大きく裂けている。けれども全身の様子、手足と特に指の長いところなどまるで同族のようである。それにこの悪魔には、よく絵画に見られるそのシンボルとなっている角も尻尾も生えていない。この点については後に悪魔自身が次のように説明している。
「あれは人間が自己防衛と言うか、体裁を保つために考え出したものですよ。もし悪魔に角と尻尾をつけなければ、自分たちとまるで変わるところがないと思ったからでしょう」
                          (つづく)


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