【連載】

『名曲奇譚』

鈴木 康央

 

〈毎月第1月曜日更新(祝日の場合は翌営業日更新)〉

 

『甦った三島由紀夫』

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第13回

第5話   「コリオラン序曲」 (その二) 

 

 突然の手紙、どうぞお許しください。刑事さん(もう退職なさったと聞いてますが)、沢口です。覚えていらっしゃいますでしょうか、一九七〇年のこと。いや失礼しました。有能な刑事は丁度名投手がその試合で投げた配球をすべて記憶しているように、自分が担当した事件はすべて覚えていると聞きました。当然あなたも私のことを覚えてらっしゃることでしょう。そうです、あのサーカスのナイフ殺傷事件です。あの事件は私の計算通りの過失致死ということで一件落着しました。状況を見れば誰も疑いを持つことはなかったでしょう。事実誰も疑わなかった、ただひとりあなたを除いては。そう、あの時あなただけが執拗に決着がついてからも何度かサーカスを訪ねて来られた。そして特に私に疑いの目を向けられたことは重々感じていました。しかし何の証拠もないし、何より大勢の観衆の前での事件で誰もが大和田秀樹が妻のユリ子をナイフで突き刺すのを見たのですから、私に嫌疑をかけるなど全く馬鹿げたことでしょう。それをあなたは・・・何だったのですか。刑事の直感ってやつですか、犬のような嗅覚が働いたのですか。しかし結局は諦めるしかなかった。直感だけでは逮捕はできませんからね。でもね、刑事さん、今白状します。あなたは正しかったのです。
 その前に話が前後しますが、なぜ今頃になって私があなたに手紙を差し上げようという気になったのかを言っておかねばなりますまい。私はもう七十も半ばです。あの事故以来からだには無理をさせぬよう心掛けてきたのですが、この間健康診断を受けてみると精密検査が必要だと言います。それで大学病院で調べてもらったら、肝臓癌ですでに転移も始まっているとのことでした。この歳ですから手術も難しいでしょうし、いずれにせよ先が長くないことはわかっています。それならば私の人生の中で最も輝かしかった時代であり、そして最も苦悩の日々であったあの時代の終局の一幕の真相を誰かに打ち明けておかねばならないと思ったのです。こんなしこりを持って死んでゆくのは嫌です。勝手かもしれませんが、死ぬ時は何もかも清算して死にたい、もうすべて忘れてしまいたい。そこで真っ先に思いついたのが刑事さん、あなただったのです。あなたに真相を告げてから死のうと思います。これで少しは気も楽になるでしょうから。いや、本来ならあの時に打ち明けておくべきだったのでしょうが・・・。
 さて、では昔の事件のことですし、事件の日から遡った時点より順にお話していった方がよろしいかと思います。
 私は一九六〇年、中学を出るとすぐにSサーカスに入団しました。学校の通知簿はどの教科も殆んどが2で体育だけがいつも5、特に器械体操が得意中の得意でした。それに家も貧しかったので親の反対もなく、そのままサーカスの一団員となって旅の生活が始まりました。団長は私の才能を見込んで空中ブランコをやらせました。空中ブランコと言えば何と言ってもサーカスの花形、私も喜んで取り組みました。しかしおわかりでしょうが、そう簡単にできるものではありません。当時はスパルタ教育が堂々とまかり通っていた時代ですから、私も先輩たちにしごかれて毎日新しい痣を作って泣きながら練習を繰り返していました。
 ところで私と歳も同じで同期に入団した男がひとりおりました。それが大和田秀樹です。彼の身の上もかなり悲惨なものだったようで、どうやらとある孤児院から抜け出して来たのだろうと皆噂しておりました。けれどもうちの団長はそんなことはどうでもよかったようで、とにかく才能ある若者を欲しがっていました。はっきり言って、客を呼んで稼げる人間ならその素性など関係なかったのです。大和田はナイフ投げに挑戦しました。その時はSサーカスでこれを演じられる者は誰もいなかったのです。どうやら大和田にはその才能が充分にあったようですし、それに幼い頃からの苦労が作り上げたのか至ってクールな性格でしたから、ナイフ投げのように極度の集中力と大胆さを必要とする演目には打ってつけだったようです。毎日毎日一人で標的に向かってナイフを投げ続けていました。同期のよしみで私は親しくしようと努めたのですが、無口な彼はなかなか心を開いてくれませんでした。
                           (つづく)


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