【連載】

『名曲奇譚』

鈴木 康央

 

〈毎月第1月曜日更新(祝日の場合は翌営業日更新)〉

 

『甦った三島由紀夫』

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第3回

第2話   「蚤の歌」(その二)

 

 しばらく沈黙があった後。
「私は木の精です。姿はありません。けれどもあなたの頭の中で鳴っている音楽をともに体験することができます。あなたは素晴らしい音楽家です。そこでお願いしたいのです。私をあなたのそばに置いて音楽をいっぱい聴かせてください」
はっきりとそう言うのが聞こえた。それで彼は確信した。酒のせいでついに精神がいかれてしまったのだと。するとそれに答えるかのようにその声が言った。
「幻聴ではありません。私は本当に木の精なのです」
ムソルグスキーは虚ろな目で頭を叩いたり振ったりするだけである。そこで少し間があって、また声。
「わかりました、仕方ありません。信じてもらえるように形を取りましょう。そして私を連れて帰ってください」
まだ口をパクパクさせているムソルグスキーの手の甲に、かすかに触れるものがあった。見ると蚤が一匹、彼の手の甲に乗っかっていた。慌てて払い除けようとすると、
「待ってください、私です」
と、確かにその蚤の方から声が聞こえてきた。ムソルグスキーはもう叫び声をあげる力もなく、ため息をつくばかりであった。
「私です。潰したりしないでください」
ややあって、やっと話せるようになったムソルグスキーは手を目の高さまで持ち上げ、目を大きく見開いて蚤を見つめながら言った。
「本当にお前なのか。お前が話しているのか」
「そうです、私です。近くにいたのでこの蚤のからだを借りることにしました。これで私の存在を信じてもらえるでしょう。でもこの魔法は一度しか使えないのです。つまり私はこれからずっとこの蚤に宿っていなければならないのです」
ムソルグスキーの呼吸もようやく正常になった。もっとも頭の中ではあちこちでショートして火花を散らしていたけれども。
「木の精が一体なぜ俺に・・・」
「あなたの音楽をいつも聴いていたいのです。あなたがこの公園にいらっしゃる度に私はあなたの音楽を聴いていました。私を連れて帰ってそばに置いてください。そして素敵な音楽をいっぱい聴かせてください」
目をむいて自分の手に話しかけるムソルグスキー。その姿は十分に警察か病院に一報するに値するものであった。
 蚤(木の精)は、どうやら直接ムソルグスキーの脳と心、魂に話しかけてくるらしい。また彼の方も、実際に声に出さずとも口の中でもごもご言うだけで十分に彼女(木の精に男も女もないようだが、その声と話し方からムソルグスキーはそれに女性を与えた)に伝わるようだ。
「お前に仲間はいないのか」
「たくさんいますよ。でも一本の木に一人というものではありません。一本の木にたくさん宿ることもありますし、何本かの木を一人が担うこともあります」
「どういうことだ」
「例えば、挿し木を想像してみてください。新しく出た株は元の木と同じ生命なのでしょうか、それとも新たな生命なのでしょうか。・・・木の精は数える名詞ではないのです」
よくわからぬままだが、こういう会話はムソルグスキーに遠い過去、幼い頃の母との会話を彷彿させるものがあった。ほんのりと薄くではあるが、彼の心を春先の暖かい色に染めるのであった。
 それから数分ほど蚤とお喋りして公園を後にしたムソルグスキーは、手に空いたウィスキーの瓶を大事そうに持って、時折中を確かめるように覗きながら我が家へと向かった。
                 (つづく)


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