【連載】

『名曲奇譚』

鈴木 康央

 

〈毎月第1月曜日更新(祝日の場合は翌営業日更新)〉

 

『甦った三島由紀夫』

アマゾン 三省堂書店 honto 楽天ブックス

 

 

バックナンバー

HOME

第25回

第8話  「失われた小銭への怒り」 (最終回) 

 

 ベートーヴェンが25歳くらいの頃、ハイドンやモーツァルトの楽曲の研究に精励し、自作のピアノ三重奏曲やピアノソナタを手掛けていた頃である。生来の極度の集中力と興奮から忽ち激怒してしまう性分は、自ら心得ながらも如何ともしがたいものであった。
 ある日、外出から帰ったベートーヴェンはポケットから小銭を取り出し、無造作に仕事机の上に投げ出した。結構金銭に細かく、一枚ずつ数えていくと1ペニヒ足りない。机の下を見てもない。タンスの下に転がったのかと、床に伏して探したが見当たらない。山積みの楽譜を掻き分けて探す。···次第にその手つきが慌ただしくなってくる。ゴミ箱を蹴り飛ばして中を探る。···ない、どこにもない。
「あの文具屋のおやじが釣銭をごまかしたんだな! あの萎れた花芯のような目はずっと伏見がちだった。きっとやましいことを企んでいたにちがいない」
拳で机を一つ叩く。
「いや、帰りがけに馬車にぶつけられそうになって跳ねのけた時に落としたのかもしれない。街中をあんなスピードで飛ばすなんて、あの青二才の御者め! あいつのせいだ」
両手で二つ叩く。
 猫が咽喉をゴロゴロ鳴らすように、立ったまま机を両手で押し潰すようにしながら呟く。ブツブツモゴモゴと五六分も続くと手が痺れてきて椅子に崩れ落ち、大きく一息つく。
 無意識に右手指が机をカタコトと弾いている。···半意識となってそれに左手が加わる。音程のないカタコトだが、かなり速いリズムで疾走している。···すでに彼の頭の中では、音の追求から音楽の創作へと始まっていた。
 クラヴィーアの椅子に掛けて演奏。···コインが転がるように音が流れる。

 ちがう。転がっているのはコインではない。コインを失くした俺があちこち転がり回っている姿だ。ハハハ、実に滑稽だ。1ペニヒのために床に這いつくばり、机の角に頭をぶつけ、ゴミ箱を蹴り倒し、楽譜をバラバラにして···大笑いだ。
 モチーフは感情から生まれる。しかし感情の赤裸々な露出は単なる騒音にすぎず、さらにそれが脳に伝わって忌まわしい感情を高めることになる。悪循環!(と、鍵盤を拳で一打)
 感情の炎を蠟燭の炎に移さねばならない。落ち着いた蝋燭の炎は感情の点火ではなく感性の灯火、監査する明かりとなる。この明かりの下で音符を組み立てる。絨毯を織り上げるような技術をもって。技術は理性の保護と監視の下で磨かれる。···感情がモチーフを生み、感性がそれを躾けて、理性が作品に育て上げる。
 これまでの先人達の作品は理性が勝っている。確かに技術は不可欠、芸術の土台となるものだが、これが過分に勝ると生命力が乏しくなる。これからの音楽はもっと感情に重きを置いていいのではないか。もっと言うなら自分の感情を自信をもって語るべきではないか。ただし、これが勝り過ぎると品位が下がる。···ディオニソスとアポロンの配剤。
 俺の音楽はすべて単純なモチーフから構成される。実際一つのモチーフから十でも二十でも、いや三十だって変奏曲を作ってみせよう。···そうだ、いつか一つのモチーフからなる一曲の交響曲を仕上げてみせよう。一枚岩の骨格に逞しい手足をつけた恐竜のような交響曲を作ってみたい。
 はたしてかの小銭はいずこに? 路上か床の上か、はたまた誰かのポケットの中か金庫の中か。いずれにせよ冬眠中の幼虫のようにじっと蟄居して活躍する時を待っているのだろう。一方それを失くした俺の頭と心はコマネズミが如く動き回っている。主を失くした小銭の視点に立てば、俺の方が行方不明者ということになるのだろう。
(無窮動のアルペジオが鳴り続く)
つまり、そういうことだ!

 このピアノ小品「失われた小銭への怒り」の正式名は「ロンド·ア·カプリッチョ」作品129である。作品番号から察すると晩年の作品のように思われるが、実はベートーヴェンの死後に発表されたものである。若きベートーヴェンがクラヴィーアの前で自動思考するうちに出来上がった、一つの精神の「習作」と考えていいだろう。

                           ( 完 )


HOME
株式会社ヌース出版
107-0062 東京都港区南青山2丁目2番15号 ウィン青山942
(TEL)03-6403-9781 (E-mail)logosdon@nu-su.com

Copyright © Nu-su Publishing Inc. All Rights Reserved.