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KUCO/PIXTA(ピクスタ)
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ややおどろおどろしい表題であるが、墓に宿る霊魂のこと、ならびにそれを破壊する話をしたい(拙稿「墓の聖性とその破壊・冒涜」『中世の寺社焼き討ちと神仏冒涜』戎光祥出版、2021年参照)。
前回の主人公・高師直には師泰という兄弟がいた(師直の兄とする史料もあれば弟とする史料もあって結論は出ていない)。師直に勝るとも劣らない武将であった師泰は、初期室町幕府における武力の中核として各地を転戦し、武功をあげた。しかし観応の擾乱(幕府の内部抗争)で足利尊氏の弟直義と争い、師直ともども討たれた。観応2(1351)年2月のことであった。
師泰に関連して、次のような興味深い逸話が残っている(『太平記』第27巻)。あるとき師泰は、京都東山に山荘を造ることを思い立った。ここぞという場所を見つけたが、そこは文章博士菅原在登の所有地であった(菅原氏は古代以来の名門貴族であり、菅原道真などを輩出している)。師泰は使いを派遣し、土地を譲ってくれるよう交渉した。土地の譲渡は認めた在登であったが、ひとつだけ条件を出した。「かの地は代々の先祖が眠る墓所であり、五輪塔を立てて経を奉納するなど供養している。どうか墓標を他所へ移すまで待ってもらいたい」というものであった。
返答を受けた師泰は在登が土地を惜しんでいると激怒し、墓をすべて掘り起こして木を切り捨てさせるという強硬手段に打って出た。五輪塔の下からは苔の付いた骨、あるいは故人の名前が刻まれた石碑などが累々と姿を現した。こうなってしまっては死者の霊魂がさまようことになりはしないか、と『太平記』の作者は感想を書き記している。
ほどなくして墓所を掘り返し整備された地点には、何者かによって歌を書いた落書が立てられた。
〝亡き人の しるしの卒都婆 掘り捨てて 墓無かりける 家造りかな〟
あてつけのような落書を見た師泰は再び激怒。在登の意趣返しに違いないと考えた師泰は一計を案じ、たまたま起きた口論に巻き込まれた風を装い在登殺害を企てた。寛尊法親王(亀山天皇の皇子。出家して大覚寺に入る)が寵愛する稚児五護丸に命じ、在登を殺害させたのであった。
『太平記』が記す一連の出来事は、はたして史実であろうか。師泰が墓所を破壊させたことについては、他の史料に見えない。けれども後半部分、すなわち在登殺害については複数の史料から裏付けることができる(『祇園執行日記』『公卿補任』など)。殺害時期(観応元年5月)、さらには実行犯である稚児の名前まで一致することから、『太平記』が記すような事件があったことは疑いない。そうすると、殺害事件のきっかけとなった墓所破壊についても『太平記』は史実をベースに著述した可能性が高いといえる。
師泰の墓所破壊が実際にあり得たことを前提に、『太平記』に戻りたい。『太平記』の作者が「(墓所を破壊してしまっては)死者の霊魂がさまようことになりはしないか」と案じたという描写から、墓所・墓には死者の霊魂が宿っているという認識をうかがい知ることができる。これは特殊な事例ではなく、中世において広く共通の認識がなされていた。
時代をさかのぼって12世紀成立の『今昔物語集』(巻第31-27)を見てみよう。ある所に、父親を亡くして悲嘆に暮れるふたりの兄弟がいた。年月を経ても寂しさが癒えない兄弟は、父が恋しくなるとそろって墓に行き、そこに宿る霊魂と対話(交感)したという。
同様の例を『源平盛衰記』(巻第10)に求めてみたい。安元3(1177)年におきた鹿ケ谷事件(平家打倒の謀議とされるが近年見直しが進められている)の中心人物とされる藤原成親。成親没後、息子の成経は父の墓前にて生きた人間に語りかけるように接したという。
墓に宿ると考えられたのは、故人の霊魂だけではない。『東山往来』(11世紀末~12世紀初頭成立)によると、死者を祀る卒塔婆には塔を守る神・舎利(遺骨)を守る神も宿り、外からやってくる餓鬼を追い払うという。つまり、墓所は神聖な場所でもあった。
当然のことながら、墓は亡くなった人間(死者)がいて初めて成立する。こうした墓を神聖視する考えの根源は死者そのもの、つまり死骸・骨に行きつく。これに霊魂・霊力が宿るという発想があった(勝俣鎮夫「死骸敵対」勝俣ほか『中世の罪と罰』東京大学出版会、1983年など)。
死者の魂は残された遺族にとって敬うべきものであり、生前同様の個性を持つと信じられていた。だからこそ、『今昔物語集』の事例などのように、墓前に参じて対話を交わしたのである。けれども、生前に遺恨があった場合などはどうだろうか。
平治元(1159)年、平治の乱で敗れた藤原信頼は六条河原で処刑された。そこに現れたひとりの老人は死骸の前に立つとこれを睨みつけ、二度三度と杖で殴りつけた(『平治物語』中)。積年の恨みを晴らす目的であった。
浄土宗の開祖法然は、その独特な思想が当時の仏教界を牛耳っていた比叡山延暦寺の逆鱗に触れ、弾圧を蒙っている。法然死後も延暦寺の追及は止まらず、墓を破壊して死骸を鴨川に流そうと画策したという(『法然上人絵伝』巻42第1段)。
時代を下って17世紀初頭の長崎では、キリシタン迫害の嵐が吹き荒れていた。数多のキリシタンが拷問を受けて殉教したことはよく知られているが、死してなお責め苦を受けるケースも見られた。生きているキリシタンに辱めを与えるだけでは手ぬるいとばかりに、死者までもが狙われたのである。同朋の骨が持ち去られ、海に遺棄されることを恐れたキリシタンは、深い溝を掘って隠したり、家に隠す者もいたという(「1624年度日本年報」)。
以上の3例からも明らかなように、死者も激しい攻撃対象に晒されることがあったのである。それは死骸・骨に霊魂が宿るという認識を抜きには、成立しない。
生者を前にした死者は完全に無力な存在であったかといえば、そうではない。死者は不思議な霊力を持ち、危害を及ぼそうとする者に祟りをなすと信じられていた(『宇治拾遺物語』「世尊寺に死人掘り出す事」など)。死者が有する不可思議な力を恐れながらも、死者に攻撃を加えることができた要因は何か。要因のひとつとして、中世人の激情的な気性・眼前の物質的欲求のためには手段を選ばない感情の昂ぶりを指摘できる。冒頭の師泰ほか、どの事例にもあてはまることを再度ご確認願いたく思う。概して荒々しい感情はマイナスイメージで捉えられるのが、現代の常である。けれども激しい恨みや怒り・欲求が、人間を突き動かし、眼前の障壁を乗り越えるパワーへと転化した事実は、彼らが生きた時代相を踏まえて考えるべき性質のものであろう。
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