【連載】

日本中世の宗教社会史・心性史

稙田 誠
博士(文学、別府大学)
佐藤義美記念館学芸員、別府大学非常勤講師

 

イラスト
KUCO/PIXTA(ピクスタ)

 

〈毎月第1月曜日更新(祝日の場合は翌営業日更新)〉

 

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第3回

死者と生者のはざまで―源平合戦の「行方不明者」をめぐって―



 治承4年(1180)4月、平氏打倒の令旨を発した以仁王が兵を挙げた。以仁王の挙兵はまもなく鎮圧されたものの、彼の呼びかけに応じた武士たちが各地で蜂起し、全国的な内乱へと拡大していった。いわゆる源平合戦(治承・寿永の内乱)である。反平氏の兵を挙げた武士たちのうち、鎌倉に拠点を置き東国を制圧した源頼朝は、次々と各地の反乱分子を自己の勢力に統合していった。富士川の戦い・倶利伽羅峠の戦い・一の谷の戦い・屋島の戦いなどで平氏軍を打ち破り、ついに元暦2年(1185)3月の壇ノ浦の戦いで平氏軍を壊滅させた。その後、文治5年(1189)には平泉の奥州藤原氏を討伐せしめ、内乱の過程で段階的に形成された鎌倉幕府権力を確立したのである。
 壇ノ浦の戦いによって、平氏軍の組織的な戦闘力は完全に失われた。けれども勝利した源氏方、とりわけ棟梁頼朝にしてみれば、手放しで歓喜できない事情があった。生き残った残党と怨霊が新たな課題として浮上したのである。今回は、残党と怨霊について「行方不明(者)」という視角から切り込んでみたい。
 
 運命の3月24日。源氏方840余艙・平氏方500余艙といわれる船団が壇ノ浦(山口県下関市。現関門海峡の東口にあたる)で遭遇戦を繰り広げた。当初平氏方が優勢であったが、阿波の豪族田口重能の寝返りによって形成は逆転、源氏方の勝利となった。もはやこれまでと覚悟を決めた平氏方の面々は、次々と海中に身を投じた。『平家物語』によると、平氏政権に担がれて行動を共にした若干8歳の安徳天皇は、祖母の平時子に抱かれたまま「海の底にも都がありますよ」という言葉とともに海に沈んだ。平氏一門では平教盛・経盛・資盛・有盛・行盛・知盛・教盛が入水した。建礼門院(安徳天皇の母)や平氏方の棟梁である宗盛は偶々海から引き上げられ、京都に送られた。これ以外に、自害せず戦場から離脱・逃亡した者も多数いたようである。
 
 さて、自害の方法として入水が選ばれたことは後々にまで思いがけない影響を残した。本当に死んだか否かの判定が困難なためである。当時の記録などを見るとその錯綜ぶりは明らかだ。たとえば、清盛の弟経盛の場合は次のように記されている。
『平家物語』:碇を背負い教盛と手を取りあって入水。
『吾妻鏡』:一旦戦場を離れて出家したのち引き返して入水。
『醍醐雑事記』:行方不明。
 行方不明とあるのは生存の可能性をも否定しない表記である。こうした史料上の混乱そのものが、生存の有無の把握がいかに困難であったかを物語っている。
 入水することなく、戦場から離脱した武将の行方も気になるところである。壇ノ浦の戦いからまもなく10年になろうという建久5年(1194)、平盛嗣が潜伏先の風呂場で捕縛された。勇将として知られた盛嗣は、壇ノ浦の戦場から離脱した後も頼朝の首を虎視眈々と狙っていたことを白状し、鎌倉で処刑された(『平家物語』)。
 すくなくとも頼朝をはじめとする幕府首脳陣にとって、行方不明者は生存か死亡かをはっきりと確認できる瞬間までは、死者とも生者ともいえない(両者の境界線上にいる)曖昧な存在であった。通常、恨みを残した死者であれば鎮魂を行い、生者であれば武力を行使して討伐するなり用心を厳重にするなりの対応を取るべきところだが、行方不明者に対しては残党狩りにしても雲を掴むような対策にならざるを得ない。敵の姿・正体が見えにくいのである。一見無力にも思える行方不明者であるが、その曖昧さがかえって不気味であり、侮りがたい存在であったといえよう。
 
 未曾有の内乱は、多数の戦死者を生んだ。為政者のつとめとして、朝廷・幕府ともに戦没者供養を催している。非業の死を遂げた者の霊魂は、恨みを持つ人物に祟ったり、災害を発生させるなど社会に大きな影響を及ぼすようになる。こうした霊魂のことを怨霊と呼ぶ(山田雄司『跋扈する怨霊』吉川弘文館、2007年)。壇ノ浦の戦いにおいても、安徳天皇や平氏の怨霊が生まれ出た。朝廷や幕府の怨霊対策を見てみると、戦乱で亡くなった者を一括して供養する対策と、幼くして平氏と運命をともにした安徳天皇などを対象にした個別的対策の両方がなされていることがわかる。
 建久元年(1190)7月15日、鎌倉の勝長寿院では頼朝が列席する中で万灯会が行われた。万灯会とは、多くの灯明を灯して供養することで懴悔・滅罪を祈る法会のことである。勝長寿院万灯会では“滅亡した平氏たちの黄泉を照らすため”と『吾妻鏡』に明記されているように、特定の個人ではなく戦没者を一括しての鎮魂であった。
 これとは別に、個別の対策も行われた。源平合戦によって新たに誕生した怨霊の代表として、安徳天皇を挙げることができる。幼くして入水した安徳天皇については、後に摂政・関白などを歴任する九条兼実のように当初から同情意見が見受けられるものの、怨霊になった(と信じられた)。壇ノ浦の戦いから4カ月後の夏、京都を大地震が襲う。これは安徳天皇をはじめ、壇ノ浦に沈んだ者たちの怨念であるとされた。その後、建久2年(1191)12月には安徳天皇のため長門国にお堂を建てることが朝廷の会議で決められた(現在の赤間神宮)。残念ながら、それでも安徳天皇の怨霊は鎮まらなかった。建久10年に頼朝を病死に至らしめたのは怨霊たちの仕業とされ、とりわけ安徳天皇の怨念は強かったようである(『保暦間記』)。
 
 怨霊としての前提条件は、いうまでもなく「死んでいる」ことである。実は安徳天皇の場合遺体が確認できておらず、入水によって死んだか否かが把握できていないようなのだ。九条兼実は安徳天皇入水の報をキャッチした元暦2年4月4日時点で、天皇の存否は「明らかでない」と日記『玉葉』に記している。その後も死亡が確認されたという続報はない。後に編纂された『醍醐雑事記』『吾妻鏡』でも不明とするのみである。遺体が浜に打ち上げられたという後世の伝承は残っているものの、文献上では安徳天皇も行方不明者と判断せざるを得ない。つまり、行方不明という状態の中、どこかの段階で「死んでいる」という政治判断が下されたものと考えられる。死亡認定することで、はじめてその後の対策に移行できるのである。別の見方をすれば、(平氏残党の場合と同様に)生死が定かでない行方不明という不安定な状態を危ぶむ心性のあらわれではないだろうか。
 
 かつて日本各地で突如として人間(多くは子ども)が消え失せる「神隠し」という現象があった。神隠しから神秘のヴェールを剥いだ分析結果によると、その内実は迷子や失踪あるいは誘拐・事故死・口減らしのための殺人などさまざまであった。捜索に際しては鉦や太鼓を打ち鳴らして近隣を歩き廻ることもあったが、これには「最後の捜索であることのしるし」という意味合いもあったという(小松和彦『神隠しと日本人』角川ソフィア文庫、2002年)。行方不明という不安定な状態に白黒をつけるための知恵ともいえよう。
 平成23年(2011)の東日本大震災では、いまなお2500人余の行方不明者が存在する。残された家族は、行方不明という「曖昧な状態」に直面し葛藤を抱え込みながら、生と死の境目にいる行方不明者と向き合っている(東北学院大学震災の記録プロジェクト 金菱清(ゼミナール)編『震災と行方不明』新曜社、2020年)。これも行方不明という状態の有する不安定さを言下に物語る話である。思いがけず近現代にまで話が飛んでしまったが、中世人が感じた行方不明者に対する心性と、根は繋がっているのではないだろうか。
 古今の行方不明(者)との向き合い方の中に映し出される人々の「想い」からわれわれが学ぶべき点は、大いにあるだろう。これから先も、いつ、誰が、行方不明の当事者にならないとも限らないのだから。


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