【連載】

日本中世の宗教社会史・心性史

稙田 誠
博士(文学、別府大学)
佐藤義美記念館学芸員、別府大学非常勤講師

 

イラスト
KUCO/PIXTA(ピクスタ)

 

〈毎月第1月曜日更新(祝日の場合は翌営業日更新)〉

 

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第5回

寺社焼き討ちの現場から―その原動力と正当化の方便―



 今回も、引き続き寺社焼き討ちについて取り上げる。どうして焼き討ちにそれほど拘るのか、よほどの物好きだと思われた読者もいるかもしれない。物好きなのはたしかだが、この問題を追究する目的は、たんに「いつどこで、何某の軍勢によって〇△寺が焼かれた。その被害は甚大だった」といった事実関係を探るにとどまらない深みを持つテーマなのである。
 宗教の時代とされる中世社会において、神仏は宗教性の具象であった。その存在は自明なものであり、多くの神仏が中世人の身近にあると信じられていた。こうした時代において、神仏のいわば家である寺社を焼く行為は、現代人が想像する以上の葛藤をともなうものであった。本来的には人vs人の抗争であっても、相手方の伽藍など宗教施設を焼く場合、必然的に神仏をも敵にまわさざるを得ない。「何だか後ろめたいな」「神罰仏罰によって病気になるかもしれない」「来世では地獄堕ち必定だ」こうした葛藤がつきまとうわけである。それにもかかわらず、中世約500年間を通じて、各地で寺社焼き討ちがなされてきた。中世人を焼き討ちに駆り立てた要因は何か、いかにして葛藤を克服してきたのか……有り体にいえば、極限の状況下における中世人の心性(心もよう)を探究できる得難い素材なのだ。こうした見通しのもと、前回の内容をもう一歩進めて考えてみたい。
 
 「清水の舞台」で知られる清水寺(京都市東山区)は、京都屈指の観光スポットとして国内外からやってくる多くの人出で賑わいが絶えない。平安京に都が遷って間もない延暦年間(782-806)に創建されたと伝わる同寺は、観音霊場のメッカとして繁栄した。この清水寺が、延暦寺によって焼き討ちされたことがあった。永万元年(1165)8月のことである。きっかけは、同年7月の二条天皇葬送の場でのいさかいであった。当時、遺骨を納めた墓所の周囲に各々の寺の額を打つことになっていた。額を打つ順番も慣例があったようで、一番が東大寺・二番が興福寺・三番が延暦寺となっていた。しかるにこの慣例が破られ、延暦寺が二番目に打ってしまった。これを見咎めた興福寺の僧が延暦寺の額を打ち割り、囃し立てた(『平家物語』では「額打論」として描かれている。なお、『顕広王記』という日記では最初に額を割ったのは延暦寺の側とする。怒った興福寺の僧が延暦寺の額を割り、刃傷沙汰に及んだと記す)。これに対して延暦寺の僧たちは興福寺ではなく末寺にあたる清水寺を襲撃、大規模な焼き討ちに至ったのである。
 
 『清水寺縁起絵巻』(16世紀初頭に清水観音の霊験を喧伝するために作成された縁起絵巻)によると、延暦寺の本音としては興福寺に攻撃をしかけて「鬱憤を散じたかった」ものの、その矛先を末寺である清水寺に向けたという。南都寺院屈指の武力を保持する興福寺相手では苦戦を強いられること必至と判断したのであろう。清水寺からすればとんだとばっちりを受けたという見方もできる。
 ここでは、攻撃の直接的なきっかけが「鬱憤」すなわち心中に積もり積もった怒りや恨みを散じるためであったという点に注目したい(『平家物語』『顕広王記』などでは「会稽の恥(を雪ぐ)」と表現している)。前回の考察で、神仏に弓引くことを可能にした根本要因(原動力)を恨みや怒り・憎しみのパワーであるとみなした。この考察結果は、延暦寺による清水寺焼き討ちにもあてはまるといえよう。同じ感情を共有する面々が、清水寺を急襲したのである。敵方とはいえ、霊験あらたかな寺院を焼くという行為は、罪業意識や神罰仏罰の恐怖・後ろめたさをともなう。そうした葛藤・ハードルを乗り越える力として、恨みや怒り・憎しみといった感情が大きな原動力になったのである。
 
 この焼き討ちについては『平家物語』『顕広王記』『清水寺縁起絵巻』のほか、『師守記』『百練抄』『春日神主祐賢記』などに記述がある。ここでは『平家物語』諸本のなかでもっとも古態をとどめているとされる延慶本から、焼き討ちの顛末を探ってみることにしよう。
 二手にわかれて攻め寄せた延暦寺の僧たちは、まず坊舎(=僧房。僧たちの居住空間)に火を掛けた。折からの強風によって吹き付けた黒煙によって、弓をつがえて待ち構えていた清水寺の守備隊は四方に退散したという。次いで大門と塔が焼かれた。
 ここまでは順調に進んだ軍事作戦であるが、塔が焼け、残すは本堂(寺院の中核となる建物)のみという段階に至ると、急に勢いが止まった。なぜか? 私見では、聖性に包まれた宗教空間の中でも、とりわけ中核となる本堂がもっとも高い聖性を有するため、焼き討ちする側も躊躇したものと考えている。本堂には本尊が安置されており、いわばその寺院の顔とも呼べる存在であった。清水寺の本尊は十一面観音であるが、その霊験は広く知れ渡っていた。本連載の初回でも触れたように、中世の神仏は人間に福徳をもたらすとともに、病を与えるなど恐ろしい一面も持っていた。敵対者といえども、とりわけ強い霊験を持つ本尊を直接攻撃することは、簡単ではなかったのである。
 焼き討ちを決行する者の心中を推し量ることは難しいが、次の事例は参考になるだろう。永保元年(1081)、延暦寺が敵対する園城寺を焼き討ちしたときのこと。実行部隊が帰還するや、延暦寺の座主から叱責を受けた。「堂舎や経蔵を焼いてこそ意味があるのだ。僧房ばかり焼いたところでどうしようもないだろ!」というキツい言葉であった。叱責を受けた僧たちは、再度園城寺に押し寄せ、本堂をはじめとする堂舎・経蔵などを焼き討ちしたという(『古事談』)。叱責の内容から、敵対勢力を挫くには僧房などの外縁部をいくら焼いたところで意味がないこと、堂舎・経蔵といった相手方の中核を叩くことが肝要であるという認識が読み取れる。別の事例なども勘案すると、こうした認識は中世のなかば常識であったに相違ない。
 
敵対する寺院を叩くにはその中核を叩くべしという当時の「常識」。
中核に近づけば近づくほどに神仏の力が強まる。下手に手を出せば恐ろしい目にあうかもしれないという「本音」。
……焼き討ちの実行者には、常にこうした葛藤がつきまとっていた。清水寺の本堂を前にして延暦寺の進軍が止まったという『平家物語』の描写は、そのあたりの複雑な心境を見事に示しているのである。
 
 清水寺の本堂を間近に立ちすくむ延暦寺の僧たち。よどんだ空気を断ち切ったのは、乗円という僧であった。すっくと進み出ると「罪業もとより所有なし。妄想顚倒より起る。心性源清ければ、衆生すなわちほとけなり」という呪文のごとき文言を声高に叫び、さぁ本堂に火を掛けるぞ! と扇動した。これを聞いた延暦寺の僧たちは「もっとも もっとも」と呼応し、四方から本堂を焼き討ちしたのであった。ここに延暦寺の目的は完遂された。
 「罪業もとより……」の文言を現代語訳すると「罪業は実体のないものであり、間違った認識から起こるのだ。心の本性は清いものなので、諸々の生きとし生けるものはすでに仏である」となる。詳細は別に譲るが(拙著『寺社焼き討ち』戎光祥出版、2022年など)、仏教思想に基いた寺社焼き討ち正当化の方便(論理)として機能したのである。
 
 寺社焼き討ちの原動力は、恨みや怒り・憎しみの力であった。けれども、それだけでは不十分なのである。これから行おうとする一見罰当たりな行為を正当化する論理が希求されたのであった。現代人には無茶苦茶にも見える発想だが、中世人のリアルな思考メカニズムが剥き出しになっているといえよう。


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