【連載】

日本中世の宗教社会史・心性史

稙田 誠
博士(文学、別府大学)
佐藤義美記念館学芸員、別府大学非常勤講師

 

イラスト
KUCO/PIXTA(ピクスタ)

 

〈毎月第1月曜日更新(祝日の場合は翌営業日更新)〉

 

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第17回

足利尊氏と地蔵菩薩



 数ある仏のなかで、日本人にもっとも身近な仏は何であろうか。別に優劣をつけるべき問題でもないが、歴史的に見た場合人々の身近にあって信仰され、親しまれてきた仏の筆頭格として地蔵菩薩を思い浮かべる人は多いであろう。各地の路傍にたたずむお地蔵様は、いまなお道行く人々を見守っている。昔話でおなじみの笠地蔵や涙を誘う賽の河原の地蔵など、逸話の数やバリエーションはおそらく他の仏を凌駕するものと思われる。
 
 地蔵こそがもっとも身近な仏であるという認識は、中世人も持ち合わせていた。関東各地で修行した後、尾張長母寺に長く住した無住(1227-1312)という臨済宗の僧侶がいる。禅を基調としながらも密教や浄土思想など仏教のさまざまな教えを兼修し、その教えをわかりやすく具体的に説いた無住の主著が『沙石集』である。そこでは釈迦如来あるいは阿弥陀如来と比べて、地蔵菩薩は一層人間に近い距離にいることが書かれている。
「人間と仏とが感応し合えばどの仏でもご利益があるけれど、地蔵は諸々の仏のなかでとくに我らと縁がある仏である。釈迦如来はすべての教えの師であるが、我々からは遠く隔たった所におられる。阿弥陀如来も十万億の国を過ぎた宮殿におられるため、救済の光明から漏れることもある。かたや地蔵菩薩は永久に六道の世界の道に立ち、朝も夜も人々の身に寄り添って縁のない者でさえお救いになるのである。夷のような恐ろしい者たちにもその姿をお見せになるという。ましてや多少でも善根があれば、それを縁として地獄でも助け、人間界・天上界・諸仏の浄土へ送ってくださるのだ」。
 いつでもあらゆる場所に顕在し、分け隔てなく救ってもられるという期待感が、地蔵への信仰心や親しみを醸成したのであろう。地蔵が観音とならび慈悲の仏と呼ばれたことが実感される。
 
 室町幕府の初代将軍・足利尊氏(1305-1358)も、地蔵に心を寄せた武将のひとりである(ほかにも観音・天神など複数の神仏を信仰していた)。『蔭涼軒日録』延徳3年(1491)7月15日条は、そのことを示す史料として興味深い。これによると、尊氏は等持院(京都市)の本尊で弘法大師作とされる地蔵菩薩立像を自身の守仏として具足唐櫃に入れ、大切に保管していたという。
 この像を調査した山本勉氏は、弘法大師云々は付会であっても9世紀末ないし10世紀前半頃の作と見る。一方、像の表面を覆う金泥塗りと着衣の文様あるいは台座は、尊氏が活躍した南北朝時代のものであるという(『足利尊氏』栃木県立博物館、2012年)。尊氏自ら「お色直し」を指示したのであろうか。
 
 尊氏の地蔵信仰は生母上杉清子譲りといわれているが、人生のさまざまな苦難・危機をひとつひとつ乗り越える毎に人力を超越した仏の力を実感し、信仰を深めていったのではないだろうか。大きな画期のひとつが、30代初頭に経験した苦い敗戦とそこからの再起であった。
 元弘3(1333)年、新田義貞らとともに鎌倉幕府を滅ぼした尊氏であるが、その2年後には北条氏の残党勢力が鎌倉を占領する事態となった(中先代の乱)。このとき関東で頑張っていたのが、弟直義である。直義の窮地を救うべく京都から鎮圧に向かい鎌倉を奪回したものの、後醍醐天皇からの帰京命令に従わなかったため討伐対象にされてしまう。結局天皇の命を受けた新田義貞らの軍勢を撃破して入京するが、翌建武3(1336)年には奥州の北畠顕家が大軍で尊氏討伐のため上洛、形勢は逆転した。窮地に陥った尊氏は、西国への敗走を余儀なくされたのであった。 
 
 九州に赴く途上、尊氏は不思議な夢をみた。
〝敵軍に迫られた尊氏は、これを回避するため山に登った。山頂は道なき道であり、滑落しそうになった。後ろを付いて来た直義の手を引いていたところ、僧形の地蔵菩薩が現れた。地蔵が尊氏の手を握って山から飛び降りると、そこは大平原であった。まもなく忠臣の高師直・師泰らが数千の軍勢を率いてやってきた……〟 
 無事に上陸した九州で、夢で見たような大平原に立った尊氏は深く感じ入ったようである。これをきっかけに自ら地蔵の絵を描くようになったという(義堂周信『空華日用工夫略集』永徳2<1382>年10月1日条)。
 その後、建武3年3月に多々良浜(福岡市東区)で菊池武敏らを寡兵で打ち破って畿内目指して駆け上り、湊川の戦いで楠木正成らの軍に勝利を納めている。光厳上皇をともない京都に入ったのは同年6月のことであった。
 一連の動きを見ていると、九州での勝利が劣勢挽回の大きなターニングポイントになったことに気付かされる。苦境のなかで見た夢に地蔵が現れたことで、尊氏の信仰心が一層強まったと思われる(この夢自体を後付けとみなすことは簡単だが、後々まで語り草になっていること、実際に尊氏が描いた地蔵像が複数残っている事実は揺るがせにできない)。
 
 尊氏は地蔵や観音の絵を描くことを日課にしていた。さらには地蔵の絵に賛(詩文)を入れ複数の人々に与えてことが知られている。たとえば浄明寺(鎌倉市)には、臨済宗の僧乾嶺士曇(1285-1361)に与えた絵が伝わっている。同様の絵は幾例か確認されている。
 尊氏は自身の現当二世における安穏を地蔵に祈願したに相違ない。しかし、描いた地蔵の絵をゆかりのある人々に与えたことは、地蔵の利益を自分だけのものにせず、ひろく融通するという理念に基づくのではないか。『梅松論』が記す「慈悲深い」「人にモノを与えることを惜しまない」という尊氏像にも合致している。
 
 尊氏は、後醍醐天皇・弟直義・子直冬など親しかった人物と敵対関係になった結果、彼らと全力で戦い勝利しながらも、彼らを終生深く愛し続けたという(亀田俊和ほか編『南北朝武将列伝 北朝編』戎光祥出版、2021年、はしがき)。一見不可解に思える態度だが、地蔵や観音といった慈悲の仏への信仰を深める過程で、慈悲心を身に付けていったのではあるまいか。地蔵や観音との接触によって、慈悲心が備わる(本来的に人間の中にある仏としての性質が開花する)という考えが中世にあったのである。むろん殺生を本分とする武士である以上、真逆の無慈悲さから離れることはできない。想像の飛躍という誹りを覚悟でいうならば、尊氏は武士の棟梁であることを捨てて仏道に専心し、慈悲行の実践者たらんことを夢見ていたのかもしれない。常に彼の身近にいた地蔵菩薩のように。


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