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KUCO/PIXTA(ピクスタ)
〈毎月第1月曜日更新(祝日の場合は翌営業日更新)〉
前回は、中世人にとって命は神仏からの最大の贈り物であったという認識を紹介した。
命を授かり、生きていくためには年齢・職業・立場に応じた本分を邁進せねばならない。それは中世でも現代でも同じである。そこでは必要に応じた能力(スキル)を身に付ける必要がある。現代人であれば、能力は自分で努力して身に付けるものと誰もが考えるところであろう。
中世人にとっても自身の努力が必要であったのはもちろんだが、人間の努力のみでは不十分であることもよく認識していた。つまり、人間の限界を突破したその先にある力は、神仏が授けてくれると信じていたのである。腕力・胆力・技量といった武力がものをいう戦いにおいても、それはあてはまる。より強靭な武力を身に付けるべく、神仏を頼みとした武士たちの姿を見ていきたい。
「願わくは我に七難八苦を与え給え」
昭和12年、『小学国語読本尋常科用』(5年生)に載った出雲尼子氏の家臣である山中鹿介幸盛(1545?-1578)が、三日月に向って祈願した言葉とされるものである。宿敵毛利氏によって滅ぼされた尼子氏再興に粉骨砕身努めた忠臣鹿介の生きざまは、この言葉とともに子どもたちの脳裏に深く刻まれた。軍国主義教育を行う上で恰好の素材となったのである。その後、この言葉は鹿介本人のものではなく19世紀になってはじめて登場したことが知られるようになった(米原正義編『山中鹿介のすべて』新人物往来社、1989年)。
実は、鹿介が月に向って願ったのは七難八苦ではない。小瀬甫庵が『太閤記』に記したところによると、16歳の鹿介は冑に半月の前立を付けて「30日以内に、武勇の誉れを手にすることができますように」と三日月に祈ったという。熱い願いを胸に臨んだ戦いで勇将を討ち取った鹿介は、生涯三日月を信仰したという。武勇の誉れを手にする願いとは、敵方に勝る武力を身に備える願いにほかならい。古代以来、多くの人々が信仰対象としてきた月は、(当時の人々にとって)ほとんど神仏に近い存在といってよいだろう。
ところで、『太閤記』は必ずしも歴史的史料としての価値は高くないと見る向きも多いが、米原正義氏によると作者の甫庵は慶長5年(1600)に出雲を訪れている。鹿介が亡くなって20年余のことである。鹿介の話もそのときの取材を活かしたものであろうし、信頼性は低くないという見立ても頷ける。
神仏に武力を求める話としては、源平の戦い(治承・寿永の内乱)における下野国那須郡(栃木県那須郡)出身の那須与一も注目される。元暦2年(1185)2月、源義経らの軍が屋島(香川県高松市)に築かれていた平氏方の拠点を壊滅させた。この屋島の戦いについてもっとも雄弁に著述したのが、『平家物語』である。その中でもひときわ光彩を放つエピソードが、那須与一の「扇の的」である。
日暮れ近く、海上に逃れた平氏方から沖に向かって一艘の小舟がやってきた。船上では若い女性が扇を開いて立てかけ、手招きをしているではないか。陸地で様子をうかがっていた義経らは「これはあの扇を射よということだな」と察知し、さて誰を射手にするかを話しあった。その結果選ばれたのが、那須与一である。さすがに辞退はできまいと覚悟を決めた与一は、渚に向かって歩みを進めた。
折しも北風強く、波は穏やかでない。船は上下し、狙いの扇も開いたりくるまったりを繰り返す始末。いよいよ矢を射る前に、与一は目をつむって静かに祈り始めた。
「願わくは西海の鎮守であります宇佐八幡大菩薩。私の産土神。日光権現宇都宮大明神。今一度私を本国である下野へお迎えくださるのであれば、どうかこの弓矢から離れずに御守りください。もしこの矢を外すようなことがあれば、永久に本国へ帰ることができません。腹を切って海に入り、毒龍の眷属になってしまいましょう」。
必死の祈願が通じたのであろうか、目を開けてみれば風は静かになっていたという。こうして見事扇を射ることに成功したのである。
この場面は『平家物語』のハイライトのひとつとして、古典の授業などでも取り上げられているものである(『平家物語』には多くの異本があるが、ここでは古態をとどめるといわれている「延慶本」の意訳を示した)。注目したいのは祈願の場面だ。名前があがっている神仏のうち、宇佐八幡大菩薩は八幡神発祥の地宇佐宮(大分県宇佐市)に鎮座している。まさに西海(この場合、九州はもとより与一がいる瀬戸内海も含む西国地域を指すと考えられる)の鎮守というにふさわしいが、当時は武力を司る存在として全国の武士たちの信仰を集めていた。その意味でも、与一が八幡大菩薩を筆頭にあげた気持ちは了解されよう。次に登場する与一の産土神というのは、彼の生まれ故郷である那須郡の那須温泉(ゆぜん)神社の神である。そのことは、「延慶本」より遅れて成立した「覚一本」の『平家物語』などに「那須ゆぜん大明神」と記されていることからも裏付けることができる。日光権現宇都宮大明神は、下野国一宮にあたる由緒ある神だ。
郷里とのつながり、現状置かれた地理的立ち位置との関連性、そして何より武力とのかかわりなど、祈りを託す神仏のチョイスには相応の意味があったのである。
さらに注目したいのは、「もしこの矢を外すようなことがあれば、永久に本国へ帰ることができません。腹を切って海に入り、毒龍の眷属になってしまいましょう」の部分である。死して「毒龍の眷属」となることは、社会秩序のかく乱をほのめかす表現にほかならない。「もし射そこなったらどうなるか、おわかりでしょうね」という脅迫的な雰囲気を、汲み取っていただけただろうか。祈願の場において、ときに恫喝めいた文言を投げつける例については以前考察したことがあるが(拙著『寺社焼き討ち』戎光祥出版、2022年など)、ここでもそうした態度が見てとれる。それだけ真剣に神仏の力を頼みとした証拠でもある。
このように、困難な状況下で弓を必中させるには、己の力量はもとより人力を超えた力が希求されたのであった。「扇の的」の逸話がフィクションである可能性はかねてから指摘されているが、当時の武士たちが「神仏は強力な武力を授けてくれる」と信じていたことはたしかであろう。『平家物語』の記述は、そうした心性の反映なのだ。
常に死と隣り合わせにあった武士たちにとって信じられるのは己の実力であり、また人力の不足を補ってくれる神仏の実力であったといえよう。
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