【連載】

日本中世の宗教社会史・心性史

稙田 誠
博士(文学、別府大学)
佐藤義美記念館学芸員、別府大学非常勤講師

 

イラスト
KUCO/PIXTA(ピクスタ)

 

〈毎月第1月曜日更新(祝日の場合は翌営業日更新)〉

 

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第7回

神仏のあらわれ方 ―岩の中からあらわれた神仏―



 ときどきフッと考えることがある。はたして中世を生きた人々は、神仏をどのように認識していたのだろうか。どういった姿かたちで立ちあらわれ、何をもたらすと信じていたのだろうか……。宗教・神仏の時代といわれる中世社会においては、それこそ無数の個性あふれる神仏を身近に感じていたに違いない。今回は岩に彫られた磨崖仏を素材に、そのあらわれ方について考察してみよう。
 
 九州は大分県の北東部、瀬戸内海に向かってこぶのように丸く突き出た半島がある。その名は国東(くにさき)半島。かつてこの山深い国東半島を構成する6つの郷に、100個所余の天台宗寺院や岩屋が点在した。これらを総称して六郷山(ろくごうさん・六郷満山とも)と呼んでいる。2018年には『鬼が仏になった里「くにさき」』として日本遺産に認定された。
 伝承では養老2年(718)に八幡神の化身である僧仁聞が、国東半島に山岳仏教の修行場を設けたことが六郷山のはじまりとされている。全国の八幡神の総本山である宇佐神宮とその境内にあった弥勒寺は国東半島の付け根に位置しており、彼らの修行のための入山や開発が徐々に浸透していった。実際に六郷山としてのまとまりを形成したのは12世紀頃といわれるが、そこでは八幡信仰・天台仏教・浄土思想・山岳信仰などが入り混じる独自の仏教文化が花開いた。とりわけ仏教建築(歴史の教科書にも登場する富貴寺大堂はその代表)・仏教彫刻・石造物などが知られている。
 前置きが長くなったが、ここで取り上げるのは六郷山文化を代表する熊野磨崖仏(現豊後高田市田染)である。
 
 六郷山寺院のひとつである胎蔵寺を横切り、鬼が一夜で積み上げたという急峻な石段を上っていくと突然視界が開けてくる。
 待ち受けるのは岸壁に彫られた二体の巨大な磨崖仏だ。向って右手が大日如来・左手が不動明王である(ともに半肉彫り)。 
 大日如来は像高約7メートルで、キッと引き結んだ口元や角張ったあごなど力強くも落ち着いた雰囲気が漂っている。体部は下にいくほど彫りが浅く、膝の部分などは元々彫られていたかどうかすらわからない。
 不動明王は牙をむきだし唇を嚙んでいる。一般的に知られる不動明王のような忿怒相ではなく、ふっくらしたユーモラスな印象を与える。こちらは像高約8メートルである。左右の脇侍は風化が進み判然としない。
 熊野摩崖仏が造られた年代は11世紀から12世紀後半頃と推定されており、大日如来の方が先行して彫られたという。
 
 この日本最大規模の熊野磨崖仏については、さまざまな調査研究が進められてきた。このうち、飯沼賢司氏は次のような見方を示している。
 磨崖仏は、彫られた像と岩盤(自然)とが結合したままの状態である。熊野磨崖仏の場合、近くに熊野権現が鎮座していることから、この山に宿る熊野の神が仏として姿をあらわしたものであるという(神仏習合)。現状では両像ともに肩から下に向うにつれ、彫は浅くなっている。これは経年による崩落などではなく、仏と岩の一体感を示すための表現方法であり、「私には、磨崖仏は岩盤からヌーとその姿をあらわしたようにさえみえる」と述べる(飯沼賢司『環境歴史学とはなにか』山川出版社、2004年)。
 
 神と仏が融合した磨崖仏が岩盤からヌーと姿をあらわす……まるでアニメやゲームの世界さながらの、実にファンタジックな光景ではないか!!
 飯沼氏は、〈自然と人間の距離をはかる歴史学=環境歴史学〉の提唱者である。古文書をはじめとする文献史料の読み込みを基礎に置きつつ、考古学や美術史など他分野の研究成果にも学んだ上で、現地に足を運び自然との「対話」を通じて得られた結論といえる。 
それだけに説得力を感じるが、ともすれば現代人の目から見た直感的な印象論という異論もあり得るだろう。
 残念ながら、熊野磨崖仏に関連する史料中にはこれ以上の実態究明を可能にするものはないようだ。そこで、舞台を中世の畿内に移し、類例を検討することにしたい。
 
 現在の京都府南部、木津川の南岸にそびえる標高288メートルの笠置山(相楽郡笠置町)。全山花崗岩からなる山中には巨石・奇岩が点在し、古くから巨石信仰の霊場として知られ、笠置寺が建立された。弥勒信仰の聖地である笠置寺の本尊は、高さ15メートルの巨石に彫られた奈良時代の弥勒磨崖仏である(7世紀に天人が舞い降りて彫ったという伝説もある)。
 残念ながら、この弥勒磨崖仏は元弘元年(1331)に後醍醐天皇が笠置寺に遷幸した際の火災などにより、往時の姿を見ることはできない。従来、この弥勒磨崖仏は岩壁に線を彫って描いたものと考えられてきたが、近年狭川真一氏らの調査によって、立体的な摩崖仏であった可能性も浮上している(「朝日新聞デジタル」2021年5月21日)。
 
 注目したいのは、室町時代に記された『笠置寺縁起』である。そこには「この弥勒と申すは、金輪際より生出たる大石」という一節がある。「この弥勒」とはもちろん笠置寺の弥勒磨崖仏のことである。「金輪際」は、「金輪際会いたくない」といったように極限の状態を表現する言葉として現代でも使用されているが、元来は仏教語である。仏教的世界観では、我々が住む世界を上から凖に金輪・水輪・風輪という三層の輪が支えているとされた。このうち金輪際は、大地のもっとも奥底(水輪との境目)ということである。
 
 『笠置寺縁起』に戻ると、笠置寺の弥勒磨崖仏は大地の奥底から「生き出」てきた存在だというのだ。「生き出」るという擬人化された生々しい表現は、まさに生命ある仏が意思を持って岩の表面にあらわれたという中世人の認識を余すところなく描いているといえよう。
 先に引用した飯沼氏の「磨崖仏は岩盤からヌーとその姿をあらわしたようにさえみえる」という指摘と、『笠置寺縁起』の「この弥勒と申すは、金輪際より生出たる」という表現は、ピッタリ符合するのである。
 岩に彫られた磨崖仏は、現代人から見ればすべて人間の創作によるものと即答できる。けれども中世人の心性においては、大地の奥底から生き出て岩石に顕現した神仏そのものなのだ。無論、熊野磨崖仏や笠置寺の弥勒磨崖仏だけが特別であったと考える必要はないだろう。記録や伝承は失われたとしても、他の磨崖仏でも同様の認識がなされていた可能性は十分に考えられる。
 
 今回取り上げた熊野磨崖仏や笠置寺の弥勒磨崖仏に興味を持たれた方は、まずは写真でその雰囲気を感じてほしい(インターネット上でも多くの写真を見ることができる)。さらに事情が許すなら、ぜひ現地に足を運んでみることをおススメする。虚心に眼前の神仏と向き合うことで、中世人の心性と交差する瞬間が訪れるかもしれない。


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