〈奇数月第1月曜日更新(祝日の場合は翌営業日更新)〉
島袋櫂(愛知県)
もっとも、高温な怒りとは、経済原理への抵抗である。
しかし、その時、自分が当事者で、現に権利を侵害されていることを条件とする。
ただ、声を挙げられない人のために声を挙げる怒りは、自省のうちに許される。その場合も、怒りや批判ではなく、その虐げられている人を擁護する形で行われるべきだ。
相手が、何か正しくない行動をとったからといって、それに介入してあげるというのはよした方がいい。気づいた時には、自分が相手のようになっているだろう。
分断を克服する唯一の道は怒っている人に怒らないということに尽きるように思えてくる。すべての分断は、何かを過ち、怒る人に怒り返すという構図の亜流に思えてくる。そもそも、自分が間違えた時に、相手が怒らないで優しく言ってくれられれば、それで私は怒らなかったのだし、相手が自分に怒って、自分が怒り返さねば、喧嘩にはならなかった。ゆるく生きることも大切だろう。笑いに哲学を持つのだ。
私たちは、どこかで、保守・リベラル、あるいは共産主義といった争いを終えなくてはならない。意見の対立はあるものの、物理的・言葉の争いを終えなければならない。平和を創ることは難しいことだ。特に相手が悪い時は。しかし、私たちはどこかで現実的にならなければならない。つまり、落とし所を見つけるのだ。そして、争いを終えて帰宅するのだ。平和を維持することはもっと難しい。何度も誤ち、赦しあうしか道は残されていない。
どの人間でも、経済原理を内包しているし、それは積極的に容認されるべきものだ。現に生活にはお金がかかる。あらゆる人間は経済原理を抱えているのである。
たとえば、鬼滅の刃やロード・オブ・ザ・リングは、高まりすぎた経済原理を寛解する作品であり、そのような作品はこれからもっと出てくると思う。それは、ポストコロナという文脈からだ。
文学者が政治に関わるか、つまり経済原理への具体的行動を取るべきかという問題では、私は関わるべきではないとしたい。文学の使命は、和解や赦しを訴え、閉塞感を薄めることの手助けである。そして、政治運動をしないどころか、政治的な作品も書くべきでないと言いたい。私が政治に関心がなく、今の状況に何も思っていないのでは決してない。トランプが大統領になったことで、戦争が近づいていると、具体的に恐怖している。私が言いたいのは、ただ、政治の言葉と文学の言葉は言葉の位相が違うということのみだ。ノンフィクション、小説、エッセイ、短歌、詩の順に言葉の位相が高い。つまり、より現実的で、社会性を抱き、言葉が緊張している。言葉の位相とは、つまり、現実と魂の真奥の度合いである。もし、政治を批判したいのなら、記事を書くか、論文を書くべきだ。そして、それにはその専門的な勉強と鍛錬が必要である。高度に学術的な対話に参加することになる。文学は、和解や赦しを訴える立場を堅持するべきだ。
ここで政治を書くことの正義を問うているのではない。そして、いわば、言葉の位相が低位な、より緊張しない言葉で文学を表現することは、文学の自由を主張することと同じなのだ。つまり、恋であり、会社で働きたくない魂を描くことは、文学の絶対を主張することなのだ。文学のうちでも小説は、物語性がある分、言葉の位相が高く、詩や短歌より、社会的抑圧に抗い、解放することに優れた芸術である。物語を通じて、社会的抑圧を告発し、争うことは、作品の中でのみ結実されるべきだ。
そして、短歌で、外国人のその個人や新しい働き方を歌うことは、自らのそれへの否定を寛解することであり、それを読む人の魂はそれと重なるだろう。新しい働き方にも経済原理は含まれる。それは、意味を求めて、何者かの迷言に自らを捧げることからその読者を救済するだろう。意味を求める者に歌を与えるだろう。そして、それは、虚言ではなく、真実の感情であり、真実なのだ。それは十分に闘争的なのである。
鈴木康央(奈良県奈良市)
「笑い」はなくとも、「怒り」は大概の動物が持つ感情であろう。たとえそれが表情や行為として示されなくても、植物も含めて殆んど全ての生物に潜在しているようにも思える。中でも顕著に表される哺乳類が「怒り」を示す時とは、いかなる場合であろうか。
まず第一に、我が身に危害を感じた時である。瞬発の怒号はその対象への威嚇及び牽制の役割を果たす。結果的に闘いに至ることもままある。
第二に、自分が不利、不当な状況に置かれていると気づいた時である。これは第一の場合よりも反応までに時間を要する。まず対象を明確に見極め、それに即した反応を選ぶ必要があるからだ。例えば、ある群れの中の若いサルであれば、その対象がボスザルならば直接歯向かうようなことはないだろうけれども、同ランクの仲間であれば不意をついて攻撃するかもしれない。
第三に、これは高等な動物に限ると思うが、同胞が危険もしくは不利不当な状況にあると察知した時の反応である。これは第二の場合以上に時間を費やすであろう。個体で反応(行動)するのか、その集団で行動するのか。集団となると一層準備を要することになる。
以上は動物一般の「怒り」について考えてみたまでで、けっこう単純な生理的反応と言ってもいいものである。しかし人間の場合、これは遥かに高度に複雑化したものになっている。「怒り」の反応が即「怒号」や「攻撃」とならずに、逆に「笑顔」を示すことだってありうる。反応までに長い「間」をもって、感情から知性へと転換される。「心」から「頭」へと移行するのである。つまりは生理的反応を合理的処置へという過程を踏むのである。従って自分とは直接関係のない他人事にまで配慮して、「怒り」を覚えるようにもなったのである。
合理的処置には「忍耐」が不可欠であることは言うまでもない。怒りを即爆発させて大失敗したことは誰しも経験あることであろう。ただ厄介なのは「忍耐」だけでは抑えきれないのが「怒り」の持つエネルギーの凄さであって、これがために誰もが多少なりとも持っているストレスから神経症に至るまで、人間の頭脳が高度になった分、それだけ精神的な障害も付加されてきたわけである。「ジキルとハイド」の小説が大ヒットしたのも、読者それぞれが我が身に感ずるものがあったからであろう。実際に「二重人格」という神経症患者が存在したし、彼らの内部では、抑圧する「知性」に耐え切れなかった「感情」がもう一つの人格を作り上げて発散したのである。
さて、このように人間の「怒り」は複雑にして多様化したものであるから、これを使って個人を知る手掛かりにもなるのではないか、と考える。つまり、ある人が何に対して「怒り」、「どのように」反応するのかを観察することで、幾分なりともその人物が見えてくるのではないか、と思うのである。
例えば、しょっちゅう小言を言っている上司などは、そうすることで「怒り」を少しずつ発散させているのであろう。ではその「怒り」の元は何か、どこにあるのか。それは得てして家庭内、即ち夫婦仲や子どもとの関係不和などが原因であることが多く、彼(彼女)なりに苦心が多いのである。面白いことに、小言の言い方が妻(夫)や子どもと同じ口調であったりすることもある。そういう目で眺めれば、うるさい上司も多少とも哀れに見えてくるかもしれない。かと言ってわざと怒らせるようなまねは決してなさらぬよう。
いずれにせよ「怒り」は大変なエネルギーを持つものだけに、そうする裏には本人には無意識であれ、何か得るところがあるのである。
平川己津子(東京都品川区)
人は自分の思い通りに事が運ばないと、程度の違いはあれ怒りの態度を示す。ヴァレンタインにくれるだろうと思っていた人からチョコレートを貰えなかったり、時刻表に書かれている時間通りに交通機関が動かなかったり、あるいは近しい関係の人との約束が守られなかったり、怒りとは違う悲しい気持ちが起きる場合もあるだろう。反対に相手を怒らせないためにはその人が考える、「思い通り」をあらかじめ理解していなければいけない。あるいは怒りやすい人の特徴を知っている必要があるだろう。例えば、常に自分は正しいと考えている人や、執着心が強くいつまでも根に持つ人、劣等感やコンプレックスを抱えている人などが挙げられる。相手が怒るツボを知って事前回避をしたり、接点を持つ必要が無ければ距離を置いたりなども接し方の手段として挙げることができる。
怒り、憤怒はカトリック教会では七つの大罪、あるいは『七つの死に至る罪』の一つとして語られている。七つの大罪の中には、傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰があり、憤怒はサタンと結び付けられ解釈されている。サタンは、かつては神に仕える御使いであったが堕天使となり、地獄の長となった悪魔の概念である。怒りと悪魔は同等に考えられている。
仏教の世界では怒りは三毒の一つとして考えられている。三毒は必要以上に物を求めるむさぼり“貪(とん)”、怒りの気持ちである“瞋(じん)”、真実を理解しない愚かさ“痴(ち)”の3つとして捉えられており、根本的な煩悩とされている。前述の七つの大罪に置き換えれば、むさぼりは強欲に、怒りは憤怒、愚かさは怠惰と置き換えることができるだろう。いずれにしても人間としてこの世に生まれることによって、 克服しなければいけない毒、あるいは罪が常につきまとっているといえるだろう。
怒りの克服は可能である。先述の通り怒りは思い通りにならない時に発生する感情であるといえるし、終始怒りを心に発生させているのは劣等感、執着心などの根本的な要因が原因と考えられる。そのような感情を内観することが可能になれば、克服も可能になるかもしれない。当然難しさは常につきまとうとはいえるが、克服できるかどうか試してみても良いだろう。怒りの感情を操ることが可能になれば、安寧な生活を送ることができるかもしれない。人間だからこそ持ち得る感情の一種として、客観視できれば克服も可能ではないだろうか。
前川幸士(京都市伏見区)
怒り(anger /rage)とは、人間の基本的・原始的感情のひとつで、欲求が充足されない時に、その阻害要因に対して生じ、攻撃や破壊といった行動に繋がりやすい。生理学的には交感神経が活動し、血圧が上昇し、心拍数が増加するといった覚醒が生じる。
人間の場合、幼少期には直接的攻撃として表出するが、言語の発達に伴い、言葉での攻撃や八つ当たりのような形で発散されるようになる。自分自身に矛先が向くと自虐的になる。一般に社会的には受け入れられないので、その表出を抑制したり、社会的に妥当な形で表出したりするようになる。
怒りは冠状動脈性心臓疾患と関連するという。厳密には、怒りの感情単一の要因だけではなく、フリードマンとローゼンマン(1959)の研究によるタイプA行動パターンが心臓疾患の罹患と死亡に関連するとされる。このタイプAとは、怒りや攻撃、時間切迫感、焦燥感、競争心や活動的の高さといった行動特性であり、このタイプの人々は、逆のBタイプの人よりも心疾患の罹患率が倍以上に高いとされる。
しかし、1980年代になると、タイプAという概念の曖昧さが指摘され、AHA(anger,hostility,aggression)と呼ばれる攻撃性の3つの側面やその概念要素が詳細に検討されるようになった。AHAとは、感情としての怒り、認知や態度としての敵意、行動としての攻撃という側面である。
さらに、慢性的な怒りというネガティブ感情があること、敵意という認知をもつことが心臓疾患の独立した危険因子であることが判明した。また、怒り感情を含む攻撃性と不安の2つは、心臓疾患だけでなく、風邪なども含む一般的な健康状態の重大な危険因子であり、鬱や不安といった心理状態・特性は、心臓疾患の罹患や予後にも関連しているという。
そして、癌の発症や罹患に関連した感情特性としてタイプCが指摘される。このタイプは、自己犠牲的、協力的で、我慢強く、怒りを中心とする否定的な感情を表出しない特徴を示す。タイプCの中でも特に怒りの感情を抑制することは、癌の発症や罹患だけでなく進行の速さにも関連するという。
そして、何よりも日本人にはこのタイプが多いことが気になる。謙遜や謙譲が美徳とされる日本社会では、タイプCであること、タイプCとなることが、世の中を生き抜くための知恵であり術である。アンガーマネジメントのメソッドが流行しているが、この内の幾つかはタイプCを作り出すことになりかねない。一方、日本人の癌罹患数は、2016年で101万200例と推測されている。1981年から日本人の死因の第1位で、日本人の死因として男性の4人に1人、女性の6人に1人であるから、両者に因果関係があるかは不明であっても、相関関係はある。
但し、怒りの感情を抑制し溜め込みやすいパーソナリティが癌細胞を増殖させるという訳ではない。癌細胞は誰もが体内で増殖させているものであるが、これを制御しているのがNK(natural killer)細胞である。この細胞は加齢によって減少するが、心的ストレスによっても激減するとされている。ストレスが血中のコルリゾールを増加させるため、リンパ球の機能が低下し、癌細胞を検知、破壊、死滅させるNK細胞の活性を低下させる。先天的に身体に備わっている防衛機能である自然免疫に重要な役割を担うNK細胞を、心理社会的ストレスが活性低下させることになる。NK細胞活性向上要因として、バランスのとれた食生活、適度な運動習慣、充分な睡眠、笑いやユーモアが挙げられるが、対処方法としては曖昧であるし、多くの人が日常的に心掛けていることでもある。
ここで注目したいのが、日記式筆記開示である。怒り経験(anger experience)の筆記開示は怒り傾向や血圧を低減させる効果が期待される。日常生活における対人葛藤経験の筆記は問題行動の減少や向社会的な葛藤解決を増加させ、日記の習慣はストレスや不安を喚起するような経験を避けたり、過去経験から生じるストレスや不安に対処したりするのに有効であるとされる。
山下公生(東京都目黒区)
怒りとは、欲求充足が阻止された時に、その阻害要因に対して生じる感情であり、ひと言で怒りと言っても怒りには、個人的な「私憤」と、社会悪に対する「公憤」とがあり、その意味と意義は異なる。原始的感情である私憤の始まりは、人類が誕生した原始時代で、自分の生存を脅かす外敵に遭遇した時、肉体及び精神状態は戦闘体制に入り、私憤は火山がマグマを噴出するような、自分の生存権を守るために発動するエネルギーである。私憤により人類は自然界で天敵から身を守り、生き残り現在に至っている。しかし、もし人類が私憤のみであったならば、自然界の食物連鎖システムの中で、弱者である人類は、今なお天敵に怯えながら細々と地球の片隅で生存していたことであろう。現在、強靱な猛獣類を抑え人類が食物連鎖の頂点に君臨し、地球を制覇しているのは、ひとえに人類が猿人より霊長類へと進化し、神の導きにより私憤を公憤に昇華させ、公憤が人類の調和と繁栄の要因のひとつとして貢献してきたからである。私憤を公憤に昇華させた象徴的存在が不動明王である。不動明王は、自性輪身の大日如来の慈愛と正義の旨を遂行するための教令輪身の姿である。私憤は仏教において煩悩の源となる三毒のひとつであり、「貪欲(どんよく)、瞋恚(しんい)、愚癡(ぐち)」の瞋恚(しんい)が私憤を意味しており克服すべきものである。
私憤は動物的な自己保存本能に基づくもので、私的な自己防衛や損得に関係するとき喚起するものである。それに対し公憤は自分の損得や被害の有無に関係なく、ある出来事において、それに関与した人物の行動が道義に反しているという知覚によって喚起されるものである。この公憤の日常的な積み重ねが社会正義を求める意識の高まりとなり、歴史を経て普遍化されて憲法の制定に至ったものと考えられる。野性的な私憤に対し、公憤は愛や正義などの霊感覚を基に喚起され、社会的価値が求められることとなる。
キリスト教では、私憤は利己主義に基づくものであり、キリスト教の根本原理であるアガペ(神の愛)による霊的調和の対極の状態にあり、悪魔に隣接して悪霊の憑きやすい状態であることを自覚しければならない。天罰は日頃よく耳にする言葉であり、一般に神が悪人に罰を下すような意味で使われているが、それは間違いである。悪行を重ねた罪人が奈落の底へ落ちて行くのは、神が罪人を奈落へ突き落としたのではなく、悲惨な状況へ誘導したのは悪魔なのである。「罪を憎んで人を憎まず」という名言があるが、神の御心はそれに近い。神の怒りは人間へ向けられることはなく、その対象は悪魔であり、悪魔に誘惑されて悪行を重ねている罪人に、神はいつも救いの手を差し伸べているが、それを無視して悪魔に誘導されている姿を自業自得というのであろう。
私憤を公憤へ昇華させた人々は、絶え間ない努力や崇高な意志により成し遂げたのではなく、全てを神に委ねた人々への神の恩恵の証しである。公憤は別名、義憤という。つまり、教令輪身的使命を成す使徒たちは、自力により達成する修行者ではなく、神に全てを委ね祈りによって、神から恩恵を授かり、その証しする人々である。聖書に「義に飢え渇く人々は幸いである。その人々は満たされる」(マタイ・五章)、「神はわたしを義の道に導かれます」(詩編・五章)と啓示されている通りである。私憤は理不尽な仕打ちを受けた場合、自己の人権を守るために行使する必要不可欠の権利である。しかし、次第に過剰防衛となり、争いの火種になることが常である。そこで私憤のぶつかり合いが生じた場合は、第三者の公憤の審判を仰ぐ必要があり、さらに法的な判断に委ねることである。それは聖書に「報復は神が成すことである」(申命記・三二章)と啓示されている通りである。つまり、私憤は公憤へと昇華させるべきものである。
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