
〈奇数月第1月曜日更新(祝日の場合は翌営業日更新)〉
鈴木康央(奈良県奈良市)
他の動物はどう思っているのか知る術もないが、人間はいつの時代でも、どの地に住もうとも、皆この世を「憂き世」と感じているようだ。ずっと太古の昔から、人類の誕生したその時から、これからも。またたとえ未来にどこか他の星へ移住するようなことになっても、なったらなったでその地でも同様に「苦しみの地」と呼ぶようになるだろう。なぜなら、もしこの世が極楽の地であったなら、この世に満足して決して死後に安らぎを求めたりはしないであろうからだ。即ち信仰心や宗教などが芽生えることはなかったであろうからだ。この世が困苦に満ちたものであるから「神」を想像し創造して、あの世に願いを込めてそこを「浄土」と想定し、この「苦しみの地」を「穢土」と考えたのであろう。
「穢土」というのは仏教的な表現だが、どの宗教でも「パラダイス」に対立する現世という概念でこの世を捉えていることだろう。つまるところ死を意識した時から人類は恐怖を感じ、この世が苦しいものとなったのであろう。言葉や道具を使うようになったのも、その線で考えればすべて困苦から逃れるため、恐怖心を紛らわすためのものだったのかもしれない。
宗教は根を張っていようとも、各人の信仰心が甚だ希薄になった現代においても、この世を幸福と感じている人は少ないであろうと思う。例えば生活に関するアンケートか何かで「どちらかと言えば幸せ」などと答えても、それは「幸福な世の中」を感じているのではなくて、「便利な世の中」になったと思う、という意味でしかないだろう。日々のニュースは「死」と「不安」でいっぱいではないか。はっきりと口には出さずとも、極力意識しないようにしていても、心の底では「穢土」と感じている筈である。だからこそ意識してかそれとも無意識にか、現代人の娯楽といえば殆どが似非の「浄土」的なものばかりではないか。テレビなど芸能人が作り笑顔でご馳走を飽食したり、多額の賞金を懸けたクイズで騒いでいる番組。あるいは世界の秘境を探し求めて撮影して、いかにも「これぞ浄土」と言わんばかりに見せる番組。そのような番組ばかり目立つ。
ところで、中には「自分は不幸だが、世の中には本当に楽して生きている奴がいる」と感じている人がいるかもしれない。例えば何億円も稼ぐスポーツマン。しかし彼らはそうなるまでに血の出るような刻苦精励を重ねてきたことであろうし、またスポーツ界での頂点などほんのわずかの時間でしかなく、その後の人生を考えると決して羨ましいものとは言えまい。あるいはスター級の俳優。彼らを映画やテレビで見るのはせいぜい2時間程度だし、そもそも我々は役の上の人物を見ているのであって、その人自身を見ているわけではない。2時間以外の見えない時間の彼らの生活など知れたものではない。事実スキャンダルに苦しめられ、プライベートの薄い彼らの生活は、ひょっとして地獄に近いものかもしれない。
というわけで、この世を「穢土」と見なすことは何も悪いことではない。むしろ「浄土」と考えるより前向きな生活態度が期待できるかもしれない。私が許せないのは、そんな「穢土」の中で自国の領土を広めようと躍起になっている大国の首脳たちである。彼らの行為がますますこの世を「穢れた地」へと変えていく。
前川幸士(京都府京都市)
穢土とは、穢れ・汚れに満ちた不浄な世界のことであるが、仏教では娑婆世界、すなわち我々の住む人間界を含んだ三界六道を指す言葉である。仏教、特に大乗仏教では、厭世観の立場から世俗の現実世界を否定的に考え、涅槃の境地を理想として、安楽に満ちた理想的な別の世界すなわち浄土を求めるという思想に発展する。浄土の対義語が穢土であり、厭な穢土の地を離れて、対義である浄土の地に行き着くことを喜んで願い求めようとするのが、大乗仏教の思想の一部ということになる。日本では、源信の『往生要集』に「厭離穢土欣求浄土 」と記されているのが、その思想を端的に表すものである。
そして、この「厭離穢土欣求浄土」を旗印としていた戦国武将が、徳川家康である。現在の日本の首都東京の地を「江戸」として切り拓いた人物が誰か、江戸の始まりをいつとするかは、難しいところであるが、江戸幕府を開いた人物が徳川家康であることは間違いない。
しかし、この地が徳川家康の入植前から江戸と呼称されていたことも間違いない。「江戸」の表記の史料上の初見は『吾妻鏡』とされる。「江」は、海や湖の水の部分が陸地に入り込んだところである入江あるいは川を表し、「戸」は入口を表していると考えられる。「瀬戸」という語があるが、この語の「戸」と同じで水の出入口を表す言葉ということになる。当時、隅田川が武蔵国と下総国の国境にあり、その入口一帯の地が「江戸」と呼称されていたのである。すなわち、「江戸」という地名の由来は「江の戸」すなわち、川に臨んだ地点、入江の戸口を意味していた。
そこで、徳川家康が、この江戸の地を現世の都として、そのままその地名を用いたというような話を聞いたこともあるが、これは全くの誤りである。現代の日本語の音では、江戸も穢土も「えど」と発音するため、同音の語であるかのように考えられるが、これらは別の発音を持つ語であり、全く関係ない語である。江戸の「え」はヤ行の「え」であり、無理にでもアルファベット表記になおすと「Yedo」ということになる。穢土は「ゑど」であり、アルファベット表記では「Wedo」ということにでもなるかと思われる。
現代の日本語が日常生活において常用され、江戸も穢土も「えど・Edo」と同音で発音されるかと認識されるようになってから、このような俗説が発生したのであって、近世においては、江戸に住んでいる人々も、他の土地で生活している人々も、江戸を穢れた土地である穢土であるとは誰も考えていなかったはずである。
江戸の地は穢土なので今後は整備して浄化するという意気込みであったとか、江戸は仮の地で居つくような場所ではない穢土であるとか、珍妙な話を聞いたり読んだりした記憶があるような気がするが、ネットのデマに等しい言説と判断できる。そのように考えると、二荒山を「ふたら」から音読みの「にこう」にして日光に改め、この地を浄土のようにしたとか、天皇が天照大御神の子孫なので自分が東の天照である東照権現と名乗ったというのも、歴史的に検証できるのか自分には判断できない。
『往生要集』にある「厭離穢土欣求浄土」のフレーズは、厭離穢土と戦乱の世を嘆き、欣求浄土と平和な極楽浄土を願い求めると解釈できる。徳川家康にとっての浄土は現世にあったはずである。死後に極楽往生することではなく、現世に浄土を実現すること、現実の戦乱に満ちた穢土の世界を平和な浄土の世界に変えること、現世に安寧な天下泰平の世を築くことが自らの使命であるとして、このフレーズを旗印にしたと考えた方が、徳川家康を称揚することになる。大樹寺十三世登誉天室は、桶狭間の戦いの折に、窮地に立たされた徳川家康に「厭離穢土欣求浄土」の教えを諭し、これ以後、このフレーズが旗印となったとされているが、これが史実か否かは知り得ない。いずれにせよ、現世を穢土としてあきらめるのではなく、浄土に変換しようという積極的フレーズとして理解したいものである。
山下公生(東京都目黒区)
仏陀は、この世は四苦八苦の苦しみの世界と悟った。四苦八苦とは、根本的な四つの苦である1.生苦(生きる苦しみ)2.老苦(老いる苦しみ)3.病苦(病の苦しみ)4.死苦(死ぬ苦しみ)と、人生の四つの苦である1.愛別離苦(愛する者と生別・死別する苦しみ)2. 怨憎会苦(怨み憎んでいる者に会う苦しみ)3. 求不得苦(欲望が満たされない苦しみ)4.五取蘊苦(五感が満たされない苦しみ)を加えて四苦八苦とした。この煩悩渦巻く苦悩の世界を総称したものが穢土であり、煩悩を解脱した涅槃の世界が浄土である。密教は、この世で即身成仏の浄土に至るが、顕教では、あの世(死後)に極楽浄土が存在する。そこへ至る過程として、阿弥陀仏に、すべてを委ねることを本旨とする他力本願の浄土宗系と、妙法を指標として精進し、涅槃浄土へ至る自力本願の日蓮宗系に分かれる。墓石の墓標が南無阿弥陀仏であったら浄土宗系であり、南無妙法連蓮華経であったら日蓮宗系を意味している。密教は梵語の真言である。
浄土宗系の浄土は、あの世(死後の世界)にあり、人の死後、極楽浄土への導きは阿弥陀仏が行う。その極楽浄土に対峙するものとして穢土があり、その世界は煩悩循環の「六道輪廻」であり、1.天道(善だが仏不在の世界)2.人間道(四苦八苦の世界)3. 修羅道(争いの世界)4.畜生道(獣の本能の世界)5.餓鬼道(強欲に苦しむ世界)6.地獄道(自己中心で、怒りや憎しみの極苦の世界)と、さらに、1.欲界(欲望の世界)2.色界(物質世界)3・無色界(精神世界)の「三界」とを総称したものである。また穢土とは、今生きている現実世界をも意味し、真言宗においての浄土は、大日如来を御本尊とする金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅の両界曼荼羅における即身成仏の世界である。阿弥陀如来を御本尊とする言葉の曼荼羅といわれる法華経を根本経典とする日蓮宗においての浄土は、妙法連蓮の世界である。
仏教を語源とする穢土は、極楽浄土、六道輪廻、三界、などの哲学的に二律背反の命題を抜きには、考察できない故、哲学的結論には至らない。しかし、仏教の教理を哲学命題に変換することにより、社会に潜む理不尽構造の解析や、人間における暗愚箇所の指摘など、哲学命題となり得る。たとえば、穢土の大きな領域を支配する煩悩とは、利己的で強大な欲望より生ずるものと考えることができる。欲界の強欲者と呼ばれる者が、芸術創作や科学的発見などへと欲望を昇華させることにより、社会に弊害をもたらす強大な欲望は、社会的価値あるものを生み出すエネルギー源となるのである。これは利己的欲望が利他的欲望へと向かい循環することにより、社会的価値あるものが生まれるのである。さらに色界に捕らわれた物欲の激しい者は、自分ためのみ貨幣を稼ぎ、低俗浪費や貯蓄に満足を得る。しかし、貨幣は社会の血管を流れる血液であり、その循環が滞れば、高血圧になり脳梗塞となるが如く、貯蓄した貨幣が無価値になることを聡明なる富豪は悟る。そこで稼いだ貨幣を、活発な貨幣循環のなかの自他共栄の経済活動に投資し、社会的価値の高い富豪となるのである。私腹を肥やすことのみに執着する富豪は、社会の経済活動を阻害する癌細胞に喩えられる。無色界の精神世界に秀でたものは、邪欲に溺れるとオカルト教団を形成し、社会の健全な思想を蝕み退廃させるバイ菌に喩えられる。これに対し、愛と正義の至高なる神の信仰者は、バイ菌に対抗する抗生物質や文化的腐敗を抑える塩に喩えられる。(あなたがたは、地の塩であり光である。マタイ5章)
穢土とは仏教用語で涅槃の浄土に対峙する「六道輪廻」と「三界」の総称を意味するものであるが、それは哲学的には、信じるか否かの二律背反の命題である。哲学命題に変換すると、穢土とは目指す理想郷の社会に相対する完成途上の現実社会である。
COOL(岐阜県加茂郡)
穢土とは「煩悩のままに悟りを得ないでいる者が住んでいる国。この世。」(『集英社 国語辞典』)のことである。この反対が「浄土」であり、「悟りを得た者が住む国」のことである。そう考えると、穢土が現実的な世界であり、浄土が理想的な世界であると考えることができる。つまり、穢土とは、浄土の逆の存在であることで、私たちにメリットを与えてくれる存在であると言える。
そもそも「穢土」の「穢」という漢字は訓読みが「 けが(れる)、けが(す)、けが(らわしい)、きたな(い)」である。良くない意味が元々の意味である。そう考えると、穢土自体が理想的な世界ではないことは一目瞭然である。現実的に考えれば穢れがない世界などない。コインに裏表があるように、どの世界も白い面(良い面)と黒い面(悪い面)がある。だからこそ穢土は現実的な世界であり、浄土は理想的な世界なのである。
しかし、よく考えてみれば「穢土」と「浄土」は表裏一体の関係にある。穢土があるからこそ浄土の良さが引き立つのであり、反対に浄土があるからこそ穢土にいる者たちは「浄土に行きたい」「あんな世界にしてみたい」と考えて、実現を目指すのである。我が国を見ても、安心で生活しやすい、時間が守られるというメリットがある反面、老後の生活が十分に保障されていない、戦争が起こったらひとたまりもないというデメリットがある。他国を眺めても、良さと悪さがない国は皆無である。
人間でも同じことが言える。まったく何も黒い面がない人など私は出会ったことがないし、これからも出会うことはないだろう。純粋だと思える人も影の部分は必ずあるわけだし、反対にどこかの国の大統領のように、真っ黒しかないという人もどこかに白い面を、持っているのは事実である。人間も黒白の両面を持っているわけであり、だからこそ人間なのだ、と言えるだろう。
煩悩を持つ者が穢土で生活するとすれば、私もまた浄土ではなく、穢土にしか住むことはできない。むしろ、浄土に生活できる人など果たしている存在するのだろうかと思ってしまう。人間には108の煩悩があり、それを減らしていくことが理想だとされるが、そもそも人間に108も煩悩があるとする時点で、浄土に住める人などいないことがわかる。煩悩が全くない人間など存在しないからこそ、私たちは私たちなのであり、人間なのである。
穢土という考え方が出てきたのは、浄土の逆の世界を作り上げ、浄土を美化することが目的ではないかと思う。また、穢土が私たちの住み場所となることで、ある意味安心感を私たちに提供してくれることも目的だろう。「浄土の世界など自分には無縁だ。けれど、せめて浄土に近づきたい」と思える人たちには、穢土にいるという事実は背中を押してくれる場所となるかもしれない。浄土へのあこがれが生まれることで、「穢土での生活を改めたい」「もっと自分をよくしたい」という人が現れたら、それはそれでよしとするだろう。
いまや世界は混とんしている。かの国の大統領のせいなのか、それとも勝手に他国に侵攻した大統領のせいなのか、それは不明だが、まさしく現実世界は穢土と化している。だからこそ私たちは、浄土に向けてどう歩むべきか、どう一致団結して手を取り合うべきなのか、考えていく時期に差し掛かっているように思う。穢土が浄土の対極にあることで、私たちに希望を与えてくれる存在である限り。
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