
〈奇数月第1月曜日更新(祝日の場合は翌営業日更新)〉
くうる(岐阜県加茂郡)
慧眼とは「物事の本質を見抜く洞察力」(『集英社 国語辞典』)である。同じ辞書で「洞察」をひくと、「物事を見抜くこと、また、先を見通すこと」とある。つまり慧眼とは、本質を見極めるとともに、先を見通す力のことだと考えられる。そう考えたとき、慧眼を持つ人とは、レアな存在の人だと言えるだろう。
例えば、昨今はフェイクニュースが存在する。AIが発達するとともに、フェイクニュースの質も高くなってきた。さらに、その量も増加してきた。おかげで、私たちはその情報が真実か否かを自分で判断することになった。情報が渦のように迫ってくる中で、それはかなり困難なことである。
とはいっても、昨今のフェイクニュースは画像にしても、動画にしても、AIを使っていることもあり、精密かつ偽物とは思えないクオリティの高さがある。私もAIが作ったタレントの動画を見たことがあるが、まるで人間であるかのようにふるまい、人間のようにしゃべっていた。写真では、素人でも合成ができてしまう時代だからこそ、顔だけを合成した写真が出回っている。これではどれが真実で、どれが偽物なのかを判断するのはかなり難しいのではないかと考えられる。
私にその自信があるかと問われたら、正直「難しい」と言うしかない。子どもたちよりは慧眼があるかもしれないが、一般の大人と比較してどうかと言われたら、私には「はい」と答える自信がない。それは私だけでなく、他の大人も同じではないかと思う。慧眼を持った大人など世の中に何人いるだろうと思う。
「慧眼を持った人」とは、こうしたフェイクニュースに惑わされるのではなく、どれが真実で、どれが違うのかを判断できる人のことなのだろう。だとしたら、それはかなり少数派であり、そのあたりにはいないのではないかと思ってしまう。「慧眼を持った人」など、少なくとも私の周囲には1人もいない。情報に惑わされてしまったり、情報を鵜呑みにしてしまったりして、何らかの損害を得る人たちばかりである。もし慧眼を持っていたら、そんな事態にはならないはずだから。
「慧眼を持った人」は世の中に果たしているのだろうか。例えば、人事を行っている人がいて、その人事が見事だったりする。その場合、「あの人は慧眼があった」と言われるだろう。が、そんな人はめったにいない。人事で言えば、良くも悪くもいい方向か、悪い方向かは、結果でしか班単できないからだ。
したがって、慧眼がある人が世の中にはいるとも言えるし、いないとも言える。これが正しいのではないかと思う。物事の本質を見抜くなど、並大抵の人ではできない。先を見通すことはできるかもしれないが、フェイクニュースで言えば、真実か否かという判断は、それなりの場数を踏んだ人でないと、判断に困ってしまうのでないか。慧眼を持った人になりたいと思っても、なかなかそうはならないのが事実である。
思うに慧眼がある人とは、たまたま予想が当たったり、運がよかったりする人のことをいうのではないかと思う。良い方向に進めば「慧眼があった」となるし、悪い方向に進むと「慧眼がなかった」となる。慧眼を持つ人とは、運にも左右されている。そう考えると「慧眼を持つ人」になるには努力が必要であると同時に、運も味方につけないといけないことになる。なかなか難しいが、少なくとも経営者はそういう人でありたい、あってほしいと思う。
島袋櫂(愛知県)
正確な観察とは、観たくないものをも観るという心理=感情の勇気がいる。私などは、悪い状況を悪いと思う自分に傷ついているのである。
慧眼を持つ者が観ると、デッサンでも同じく、主体的な感受性によって対象に没入する。主体の姿勢が視るという行為に否応なく覆い被さるのである。慧眼とは、正確な視覚の解釈であるとともに、その根元にある経験に根ざした認知の問題なのである。
人間の思想の根源とは、ある状態に置かれた時、その客観的な事実の体系と心理の納得とのピントを瞬時に合わせるその自由と柔軟である。そして、それは真実にもピントが合っているのである。
慧眼とは、恐ろしい相手を直視しつつ、なお、受動的ではなく、積極的に観るという姿勢において、その対象との関係を模索しようとする姿勢である。分析する眼力は暴力行為のように感じられるかも知れないが、信頼関係に基づかれるのである。
ところで、生物と博物学とでは、自然への感覚が異なる。
鶏は突かれた回数で順位が決まる。ある種の動物は、集団の大きさを利益が不利益をもっとも上回る状態で維持し、リーダーが集団内の争いをとめ、不利益を減らす。順位が上なほど生殖も食物も得やすい。動物や生き物は人間が思っているような存在ではないのかもしれない。自然への分析は自然への軽蔑に至る負の側面を有する。
生物学という科学によって自然を分析した後、ただ、標本資料館で、美しい蝶などを観て、名前を覚えることで、私の眼は和らいだ。生き物は人間が思っているような、たとえば、比喩で捉えるような対象ではないのかもしれない。標本資料館での3時間、静かに標本をめくった時間は嘘ではないと思っている。標本をめくっているとき、例えば、カラスアゲハの美しさに溢れ出る自然の美しさへの敬意、つまり愛情は、イリュージョンではない。
分析する視線は、人間の自立と関連しているように私には思われる。そのためか、自立を訴える西欧の方が、科学が進歩している。
人間を生物として観察するのが社会科学である。
中国が香港、台湾、ウイグルなどで圧政と人権侵害をしていること、弁護士を拘束しているなどの事例を直視するとともに、実害が起こらないように、対立を回避することの、その二重性で観ることは慧眼を持つ者でも難しい。
吉本隆明は、国家や社会は「共同幻想」なのだ、と訴えた。吉本を引用するなら、時代は、「共同の被害妄想」にかかっている。それを乗り越える鍵となるのが、私が訴える慧眼である。
人間は「地域=内=存在」である。国家として中国人は敵国なのだろうが、地域の〇〇さんになら話しかけられるのである。
私は、行きつけの中華屋さんがあるのだが、ある日、仕事前に、ラーメンのニンニクを抜くのを忘れて、言ってみたら、スープを作り始めてしまっていたが、店長が、若手に指示し、作り直してくれた。その店長はとても謙虚で優しい中国人である。また、来店することを見込んでのことかもしれないが、経済的理由も含めて、友好関係が結べたら、それもまた良し、と想う。
古い思想だが、所属している集団から降ろしてきてその個人を見るのではなく、個人を冷静に見ていく思想を顧みる必要がある。
芸術では、慧眼を持つ者は、その経験によりより批判的になるが、これらと違うことは、本は閉じればいいし、音楽はやめばいいし、絵画は立ち去ればいいのである。
外国人や自然への視野は、個人としての人間の柔軟さ、人類の本質としての幸せに直接関係すると考える。
慧眼を持つ者は、死線のあっちとこっちを見極めつつ、ぎりぎりで外国人や自然との共生を訴えるものだと想う。
結論に至ろう。慧眼とは、対象を、正確に詳細に認識するだけの老櫂で勇気ある智であるとともに、経験に根ざした主体的な受容の姿勢によって関係を探る、賢人のものである。慧眼には、どこか温もりを持った純粋さの光があるように私には想われる。
鈴木康央(奈良県奈良市)
「慧眼」の「眼」はいわゆる五官の「目」とは異なる。つまり感覚器官としての目だけでなく、他の耳、鼻、舌、肌も含め、「感じ取る」能力の代表としての「眼」である。この「眼」は虚飾やごまかし、嘘を見抜き、物事の本質を見極める力である。数ある偽物の中から一つの本物を言い当てる力である。
熟練した粉ひき職人は指で少し擦るだけで小麦粉の等級を識別でき、布地のエキスパートは手で触れるだけでその布地に使われている染料を言い当てることができる。また舌で触れるだけで5000種以上の植物を区別できるという盲目の植物学者もいる。他、オーケストラの指揮者の耳、ソムリエの舌など、いずれも卓越した「眼」である。
では、このような「眼」はどのようにして備わるものなのか、どうしたら育てられるのだろうか。・・・これについてはもう何年も前(ひと昔前)の『哲学カフェ』のテーマ「直観とは何か」と非常に関連があるように思える。私はその時の答えとして、朝沖合を眺めただけでその日の天気を、テレビの気象ニュースよりも正確に予測するベテランの漁師を例にして考察した。彼は気象レーダーから得たデータを分析するのではなく、自分の目で見た空模様、空気の流れ、海鳥の鳴き声など、五官を通して感じ取ったものに基づいた判断を下す。即ち感覚の総合力なのである。
またそこに「経験」という時間的要素も非常に重要となる。「ベテラン」にならないとなかなか的中できるものではない。漁師に限らず、先述した様々な職人たちも皆同様である。それは幼い頃からの体験の積み重ねでなくてはならないものであろう。なぜなら幼い子どもはより自然に近く、感覚がまだ裸の素直な状態にあるからだ。この頃の体験は直接心身に吸収されるだろう。日々これ刺激の連続であり、刺激は脳を活発化させ、身体機能を発達させる。
そこで気になるのが、現代の子どもの環境である。特に都会で生まれ育った子供たちは直に土に触れた経験が殆どないだろうし、飲み水と言えば水道水、泳ぐのもプールが主体。それに一年中エアコンの世話になっていて、生の空気に肌を晒すことさえ希なのではないだろうか。ひょっとしたら太陽光もあまり浴びていないのでは? おまけに小学校から電子タブレットを使った授業をするようになり、家ではスマホで一人遊び。・・・こんな子供たちが五官を錬磨する経験を享受できるのだろうか。大人になって真偽を見分けられるのだろうか。
一方、例えばオーストラリアの原住民たちは(と言ってもこのグローバル化した時代、はたしてどれだけ原住民と言えるのかわからないが)、広い砂漠の中にちょこんと小さな芽を出す植物を目敏く見つけ、その根から水分を補給しながら移動していく・・・こういう能力は我々の目には奇跡としか言いようがないものだが、彼らにとっては当然、ごく日常的なことなのである。彼らこそが「慧眼の民」なのかもしれない。
結局「眼」を持つには、まず生まれた環境、そして数多く「本物」に接する経験が必要ということになる。それから時間。上等なウィスキーが時を経て芳醇となるように、人間も長い経験を通して熟達し、真偽を見分けられる「具眼の士」になれるのである。
山下公生(東京都目黒区)
慧眼の眼とは、単に生理的な視覚を意味するものではなく、内面の特性を象徴的に表したものである。同様に眼で内面を表したものに、鳥の目、虫の目、魚の目があげられる。鳥の目は、鷹が上空から全体を眺め獲物を見つける様子から、細かいことに捕らわれ全体が見えない、「木を見て森を見ず」の者に対し、知見を広げて大局より要旨を見逃さないことを勧める。虫の目は、ミツバチが、百花繚乱の中より、正確に蜜の花を見分けることや、植物を食する虫が、わずかな違いを見極めて食となる植物を決定する様子より、緻密な分析力を意味する。魚の目は、魚が潮目を鋭敏に感じ取り海流に乗り生きることから、時の流れを素早く察知し、時代の流れに違わず生きることを意味するものである。
慧眼の慧の語源は、仏教由来の「智慧」であり、眼は洞察力を意味し、慧眼の語源は、知恵に裏打ちされた物事の本質を見抜く鋭く深い洞察力のことである。洞察力の意味については、プラトンが洞窟の比喩で考察している。洞窟に閉じ込められ縛られ、壁を見ることしか出来ない囚人に背後から火で人形を投影すると、囚人は人形を影としか認識出来ない。そこで囚人を洞窟から出せば、太陽に照らされた人形の本当の姿を知ることができる。これが洞察することを表した洞窟の比喩である。存在は五感で察知する露出した現象と、その原因となる隠れた本質より成り立つ。洞窟の囚人は、主観の欲望や願望により歪められた人形(本質)の影(現象)を、本質と誤認する比喩である。つまり洞察力とは、欲望や願望の渦巻く洞窟を抜け、地上に出て太陽に照らされた、在りのままの人形(本質)を明確に認識することである。プラトンは、このことをイデアの認識と述べたが、これは慧眼とほぼ同義語である。カントは表象と物自体を考案したが、物自体とはプラトンのイデアに対応する。さらに、ウィトゲンシュタインが述べた「語りえないもの」に相当する。慧眼が見抜くものとは、五感を通じて論証できない思考を超えたもので。言葉で明確に説明の出来ないイデア的存在である。つまり、霊的存在なのである。
慧眼とは、他者を支配し服従させるための超能力ではない。自分を縛っている穢れを回心した時、神から賜るものである。日本の武道の優先順位は心・技・体である。物理的な力は、高度な技に昇華され、その技は透明な心に統治され武道は極まる。最終的に勝敗を決定するものは、澄んだ心に注がれる神の霊である。武道の武の漢字は、止戈為武(戈を止めるを武と為す)すなわち、争いを止めて平和の道へ導くという意味が込められている。さらに道とは、老子の哲学、道(タオ)を意味し、すべての存在の源である道は、神を暗示している。武道を極めた者は、慧眼を賜り無敵となる。これは、いかにも理想化された絵空事のようだが史実が証明している。生涯無敗であった慧眼の剣聖が実在したのである。「戦わずして勝つ」の塚原卜伝や、のちに徳川幕府の剣の指南役となる若き日の柳生十兵衛を、紙筒で圧勝した「無刀活人剣」の上泉信綱などが、慧眼を備えた武道の神髄を実証している。
では普通の人は、如何にして慧眼を神から賜るのか。普通の人々は、プラトンの洞窟の比喩にある囚人といえる。つまり、邪な欲望や歪んだ願望に濁った心の目は、明かりに映る本質の影しか見ていないのである。そこは、悪魔の仕組んだ牢獄であり、自力で抜け出せば脱獄となり、すぐに連れ戻されてしまう。そこから釈放されるには、悪魔に惑わされ穢された自分を回心して神に帰依することである。すると、神から遣わされた身元引受人が現れ、釈放してくれるのである。薄暗い牢獄より地上に開放された囚人は、太陽に照らされた実在(本質)を在りのままに見る慧眼を賜るのである。その太陽とは神のことであり、慧眼とは真摯な信仰により神に賜る霊力である。
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