哲学カフェ

 

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第73回

罰とは何か
 

(五十音順に配列させて頂きました/編集部)




全知全能でない人間には使えられないものである

 島袋櫂(愛知県豊田市)


 罰する者の心理は、常に、正義の立場にある。監視において、対象の「罪」を、社会的な公平さのために、罰するのである。私は、罰されない範囲を可能な限り押し広げ、それにより罰される範囲を押し縮めるべきだという立場に、断固、立つ。
 理由は二つある。もっとも有力なその理由は、まるで、その「罪」を「罰」する者が、その「穢れ」を引き受けるように、狂気に立ち入るからである。
 理由の二つ目は、「罰されない範囲」が広いことは、それ自身、独立した価値を保有するからである。精神的、社会=経済的に、量、質、ともに、可能性が広がるからである。
 それは私の福祉職の現場で、現実で、試されている。精神疾病を持つ者を、「罰する」ことなく「愛と理解」のなかで「寛容」に受け止めることが、福祉のその技術である。彼女、彼ら、は、刑法であれ、民法であれ責任は問われない。社会的な罰を受ける範囲は、国家の強権としての刑罰よりも、より厳しく、狭い範囲においてであるが、どんな理由があって「彼らの自由」が強奪されるのだ。
 罰する者は、全知全能な神ではない。「弁の圧力」を常に緩くしておくべきなのだ。それは、あらゆる人の「生きづらさ」を大きく緩和する。
 「生きやすさ」は、「罰する者」も享受する。理由で真っ先にあげたように、「罰する心理」を持つ者は、いつしか、自らが狂気のなかで、「罰」せられるようになる。今度は自分が罰される番だ。生きづらさの本源とは、自らの「罰する心理」から生まれる。なぜなら「罰」するものは、自らの「罰せられる」範囲を狭めているからだ。「罰」する者は神ではない。もし、それが、暴力の正当化であったならば、自己保存欲求に由来するものであったらならば、「罰」する対象の行動のわけを知らないだけなのならば、「罰」する者は、いかなる権限があって罰するのだ。
 社会は寛容であり、自由であるべきだ。管理者が、「越権行為」とばかりに、寛容と自由を縮小する動きを見せるのならば、はっきりと、否、を突き付けなくてはならない。それは単なる、―管理者の越権行為―に過ぎないのだ。なぜなら、管理者は決して全知全能ではないからである。
 国家の法であれ、社会の道徳律であれ、それは常に、押し広げる力と押し縮める力が非人工的に作用する。その圧力の平衡点は、その人の「安全」にあるべきだ。
 例えればコロナ、国家的な締め付けより厳しく「世間の目」がある。マスクは、感染予防の他、人にうつさないためでもある。マスクをつけていない人がいたとして、彼女、彼を罰することなく、本人が感染しないためにのみ、マスクをつけることを推奨すべきなのである。


罰とは人間社会のフレームである

 平川己津子(東京都品川区)


 罰は犯した罪に対しての報いであるが、罰といっても色々とあり、国ごとで法的に取り決められた刑罰や宗教上の罰、そして天罰などさまざまな罰が、人間である私たちが社会に所属するうえで課せられている。一つの人間社会を維持するために規律の異なる法が制定され、その法への違反行為に対して罰は下される。罰の存在は罪を犯した本人への戒めや教育の場合もあるし、社会に所属する他の人々への見せしめの場合もある。宗教上の罰にいたっては、その存在によって良心の呵責を生み出すこともある。
 イギリスでは16世紀から法律として制定されていたバガリー禁止法、不自然な性行為を禁止する法律が1967年に撤廃された。1533年にヘンリー8世が制定したこの法律は、神の意思に背いた性行為を犯したものへの刑罰とされ、主に男性を対象とした同性愛を禁じた。更にビクトリア時代の1861年になると同性愛者には死刑も宣告され、植民地であるインド、ジャマイカ、カリブ諸国でも法律化されている。この法律が制定されている国では、同性愛は悪いコトであると考えることが一般化されて、現代でいうLGBTQは排除されてきた。1967年といえばつい54年前までこの法律によって同性に対して愛情を感じる人々は、社会から排除され、良心の呵責に苛まれて自殺に至った人たちもいただろう。
 同性愛を罰する法律には宗教的な背景がある。キリスト教では特に男女間の婚姻によって産めよ増やせよという、人間社会を充実させるための考えがあり、妊娠という可能性が無い同性愛は排除される。同性愛を容認できない考えは元来、この宗教上の教えから来ている。しかし、イギリスで同性愛を禁止する法律を制定した王、ヘンリー8世はキリスト教の教えに背き、王の行為を原因としてイギリスはローマカトリック教会から見限られてしまう。イギリス国教会はローマと分裂することで、ヘンリー8世の6回の結婚(5回の離婚)を正当化した。自身の正当化のために宗教、そして法律までも人間は変えてしまうのである。そんな自身の無茶ぶりを国、宗教、法律におしつけるヘンリー8世が、なぜ同性愛を禁じたのか、その理由は定かではないが、明らかにこの法律によってイギリスという国が少なからず形作られたといえる。同性愛に対する良心の呵責を常に背負ってきたのではないか。
 日本は歴史的にも同性愛を罰する国ではなく、戦国時代には男色の対象となる小姓の存在も認められている。しかし法的に罰せられていないとはいえ、公共の場所で男性同士がイチャイチャするような場面はなかなか日本で見ることは無い。イギリスでは長い間、同性愛行為は隠れたところで行われてきた。その反動なのか、現代のイギリスでは昼間のバス停で男性同士がキスをしていたり、抱き合っていたりする。個々の人間社会によって、社会基盤を保つための罰は違うものになる。罰があるからこそ、反対にその罪を犯してみたいという欲求をあおる事もあるかもしれない。罰には、その存在によって人の心を掻き立ててしまうものがある。社会のフレームに収まるために、人間に対して与えられた罰は、常に私たちの生活を諫めている。


「罰」とは、教育である

 前川幸士(京都府京都市)

 

 端的に言えば、「罰」とはルールに反した行為に対する制裁である。従って、その行為をどのように認識するかが問題となる。行為者の行為を外部から客観的に観察し、その行為の結果がルールに反するかを判断するのが客観主義である。これに対して、主観主義の観点では、行為者の主観に注目し、その認識、表象、意思、意欲といった行為者の頭の中を含めて、規範に反していないかを点検する。通常は、主観主義は宗教的な戒律に適用され、客観主義は法律による刑罰に適用されると考えられる。頭の中で人を殺そうと考えただけでは刑罰は適用されないが、頭の中で姦淫を犯そうと考えることは宗教的な戒律に反することがある。
 しかし、現代の刑法は、純粋に客観主義のみに徹しているのではない。車で人を轢いたという場合、客観的事実だけでなく、運転者が故意であったか、過失はなかったか、轢かれた人に過失責任はなかったのかといった主観も含めて刑罰が決められる。つまり、総合的に判断されて罰が与えられるのである。
 罰の機能としては、犯罪を通じて発生させた害悪を犯罪者にも受けさせる応報、犯罪者を社会から隔離・排除して安全な社会にする排害、社会復帰を目指して生活を立て直させる教育、他の人に同様の犯罪をしないために見せしめにする威嚇が考えられる。さらに、予防の機能もある。犯罪者本人の再犯予防を特別予防、広く社会全体での同種犯罪の再発予防を一般予防とする。
 また、罰には、身体的な罰、社会的な罰、経済的な罰などがあるが、現在の日本の刑事罰も、これらを制度化したものである。ただし、身体的な罰つまり体罰については、残酷であるとして原則禁止されている。唯一、存置されているのが死刑である。法律上あるいは事実上死刑を廃止した国が140カ国に上る現状で、日本には未だ体罰である死刑が存置されているのである。社会的な罰として、刑罰を見ると犯罪者の自由を奪う自由刑がある。これには刑事施設に収容し所定の作業に就かせる懲役と、刑事施設に収容するだけの禁固がある。つまり、労役を伴うのが懲役で単に隔離されるのが禁固である。労役は単なる苦役ではなく、社会復帰に向けた訓練であり、禁固刑の場合でも受刑者が希望する場合は作業に就くこともある。経済的な罰としては財産刑がある。罰金・科料、そしてそれらが支払えない場合の労役である。
 日本の刑法は、これらの刑罰によって、上記の罰の機能を果たす目的を持っている。ドイツの刑法学者、Franz von LISZTは、目的刑論の提唱者であり近代学派の代表的な論者であるが、日本の刑法体系は、その理念と構想を基盤としている。LISZTは、刑罰自体に必然性と合目的性を具備しなければならないとし、刑罰の目的を犯罪防止、特に犯罪者本人の再犯予防である特別予防を目的とするものと考えた。LISZTは1882年に“Maarburger Programm”を著し主観主義刑法学を展開しているが、その中で「最善の社会政策は最善の刑事政策である」とし、また「刑罰は犯罪者の教育を目的とする」としている。刑事政策の目的は、犯罪者を社会復帰させること、犯罪を予防することである。つまり、犯罪者の社会復帰や犯罪予防は、善い社会あるいは善い社会をつくるための仕掛けづくりであると考えたのである。
 もとより生来の犯罪者はいない。後天的な要因によって犯罪を引き起こさざるを得ないことになったのである。後天的な事情が犯罪を引き起こしている原因であることから考えれば、この後天的な事情を変えることが、刑法で最善の犯罪の予防方法であり、犯罪者の社会復帰を助ける最も優れた方法であることになる。そして、刑罰もこれに対応し、悪いことをした人を懲らしめ痛い目に合わせるためのものでなく、犯罪者の教育や善い社会をつくることに向けられたものでなければならない。特に、刑罰は犯罪者個人に向けられたものであるから、犯罪者の教育すなわち罪を犯さないような人格をつくることとして捉えられる。


罰とは神の代理である法による制裁と更生である

 山下公生(東京都目黒区)


 罰は罪と一対の概念であり、形而下の人に犯す犯罪は刑罰、形而上の国家理念に相反する思想犯は粛清、神への冒涜は天罰と、それぞれに対応している。
 被害者に危害を加えた加害者は、法の管理下で裁かれて刑罰による制裁を受けるが、被害者の加害者への直接報復は現代では禁じられている。ハンムラビ法典の「目には目を歯には歯を」のような古代社会では法的に認められた被害者が加害者に同等の危害を加え報復することは犯罪となる。これは、憎しみによる罪の連鎖を断ち切り、平穏な社会維持のために確立した法治システムである。その根底にある思想とは、聖書で「復讐するは我(神)にあり」と述べられているように、人は究極的には、罪人を裁けるほど完璧な存在ではなく、善悪を判断して裁くことが出来るのは唯一神のみである。よって神の代理人として、万人の合意で成立した法により、神の報復に近づけるために、公正な法の管理下で罪を裁き罰するのである。この理念は、孔子の「孔叢子」刑論に記された「罪を憎んで人を憎まず」の名言によく象徴されている。刑罰の最高刑は死刑であり、これは被害者の加害者への代理的制裁を意味している。刑法における犯罪は、殺人、窃盗、詐欺、姦淫、麻薬、などが主なものであるが、極刑である死刑は殺人犯のみで、その殺人内容が極悪非道で、被害者及び関係者への苦痛があまりにも大きく、その制裁が加害者の死の他にはないと判決された後、決行される。その他の犯罪の刑罰は、犯罪者の隔離による被害の社会的遮断と、罪の更生を目的とした投獄となる。以上、個人的犯罪に対しては、法による適切な罰の行使がよく機能しているが、巨悪の組織的犯罪に対しては、「法の目をくぐる」という巧妙な抜け道が存在し、より高度な法的整備が望まれる。
 国家が独裁的になると思想犯という形而上の罪が発生する。独裁国家では、厳格なヒエラルキー権力体制を崩壊させる思想は大罪となる。ファシズム国家への批判思想は弾圧されるか死刑となり、独裁共産主義国家では、粛清の名のもとに民主主義思想家への冷酷非道な大量虐殺がなされた。日本の徳川時代に、世界でも類を見ない程の残酷なキリシタン弾圧が行なわれた背景は、信徒は意識してなかったが、キリスト教の根底にある「神のもとには人は皆平等」という思想が、士農工商の厳格な身分制度を否定し、そのヒエラルキー権力体制を疑い、支配階級である幕府の存在を否定する思想を秘めていたからである。何れにせよ、国家とは、国主のものではなく、主権は国民に在ることを肝に銘じ、独裁者の不正な罰則を見抜く洞察力を養うことが大切である。現代において、思想内容により刑罰を行使する思想統制国家は、いまだ未熟な国家であるといえる。
 確かに邪悪な思想や宗教は存在する。しかし国家権力が、その是非を判断し罰することは許されない。国家権力は国民総意の機関であり、議会決議もなく、独断で思想や宗教を統制することは、危険な独裁国家へ向かうこととなる。邪悪な思想や宗教は現実に顕現するまでは、その正邪は判断出来ない。よって、現象に着目し、その思想や宗教との因果関係を論考検証することが糸口の発見であり、その役割は哲学に期待される。哲学とは観念の遊戯ではなく、隠された真実を公にすることであり、究極的には神への捧げ物である。邪悪な思想や宗教は、神を信じる哲学者、科学者、芸術家などに解明されることにより、その根底に在る悪霊は暴かれ、やがて神の天罰が下され解体崩壊する。すべての諸悪の根源は、神を冒涜する悪魔の悪霊憑きから発生しており、形而下の犯罪、形而上の邪悪思想も源流は同じである。よって、根源悪の原罪に対し罰を行使し浄罪できるのは、唯一神のみである。つまり罰とは、悪霊が最終的に天罰により撲滅されるまで、神の代理である法による制裁と更生である。


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