哲学カフェ

 

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第63回

学力とは何か
 

(五十音順に配列させて頂きました/編集部)




自己成長のための芸術鑑賞力

 鈴木康央(奈良県奈良市)


 例えば計算する能力を測定することは可能だろう。一定時間にどれだけ多くの計算問題をこなせるか、そしてその正解率を出せば数値として表せる。しかしそれはあくまで計算力であって学力とは言えない。
 あるいは歴史の年代や事件名を答える問題では、それを記憶力として数値化できる(かもしれない)。「かもしれない」と付けたのは、古い時代の年代などその真偽が問われるものもあろうし、事件名も時の状況によってその名称も変わり得るからだ。ましてや、各事件がもつ意味を問う問題など、何をもって正解とするか非常に困難なことは明らかであり、とても数値化されるものではない。
 つまり、計算力だとか暗記力だとかいう「~力」を示すには数値が必要である。しかし学力となるとそれは総合的な能力、即ち脳全体の働きによるもので、とても数値化できるものではない、というのが私の考えである。したがって「学力テスト」などナンセンスと考える。
 そこで思い出した。いわゆる「センター試験」が2020年度をもって廃止され、高校現場では国語の授業が「論理国語」「国語表現」「古典研究」という構成となり、事実上「文学国語」を履修する高校生は殆んどいなくなるであろうと言われている。そして入試では実用的な文章を出題するというので、「論理国語」が主流になろうとみられている。で、その「論理国語」なるものがいかなるものかというと、「駐車場の契約書」がちゃんと読めるかどうかを大学進学者に問う、というようなものなのだそうだ。高校の国語の時間に様々な契約書などを読み重ねることで論理的思考を高めることを目的とするらしい。
 最初思わず吹き出してしまった。その後、馬鹿らしいというより憤りを感じた。そもそも国語を「文学」や「論理」に分けること自体が不可解。彼ら(文部科学省?)は文学には論理性がないとでも思っているのだろうか。こんなこと今さら言うのも恥ずかしいくらい当然のことなのだけれども、文学こそ高度な論理を用いた言語表現の最上位に値するものである。それを高校時代に教えずに契約書ばかり読ませようとする連中の真意は、日本の高校生をアホにしようとしている、としか思えない。政治的見地からすれば将来その方が色々とやりやすくなるのだろう。・・・まあ、この問題はここで止めておこう。
 ともかく、学力というのは数値として測定できるようなものではない。なぜなら各人がその個人的体験に基づいて形成された脳が考えることであり、その体験には家庭、地域、時代といった広範囲な文化を背景としているからである。同じ言葉、例えば「犬」でも「パソコン」でも何でもいい、それに関する個人のイメージは十人十色で、どうしてもそこに個人の感情が付随する。それでもって「考える」のだから基準など定めようがあるまい。
 先に記した文学のように、創作する側も読む側もその作品に自分の個人的体験をふまえて接し、そこに感動が生じるのである。その力こそがあえて言うなら「学力」であろう。
 牽引付会と言われそうだが、「学力」とは「芸術鑑賞力」と言ってもいいのではないかと思っている。文学や音楽、美術に接して自己成長することこそ「学力」ではなかろうか。私は芸術至上主義者なのだからこういう結論に至るのも仕方ない。


学力とはデータの集積である

 浜田節子(神奈川県横須賀市)


 学力は生活するうえで大変重要である。生まれた途端、何らかの情報を外部から与えられる。言葉による判断、眼差し、雰囲気による身の処し方、あらゆる分野において五感を以て学ぶ、学ばざるを得ない。

 就学してからの学び以前であり、一般的な学業と呼ばれる時間を終了しても死ぬまで何らかの知識を習得していかなくてはならない。
「あの人が学がある」という時の学は、学歴を指す場合が多い。いかに長い時間を費やし、またいかに優秀とされる門戸を叩いたかで判断する学力である。

 学力は一度身につけたら一生ものというわけではなく、筋力などと同様、年月を経るに従い落ちていくことが往々にしてある。つまり常に状況に応じて補う必要があるということで、IQの高さに比例するわけでもない。

 学力テストなるものがある、都道府県あるいは国の威信にかけて学力の向上を図るシステムである。学力に応じて振り分けられる生徒の精神的なストレスなどはお構いなしの制度である。小さなうちに人生を決定づけられたような錯覚を抱く子もいないとは限らない。実に気の毒な制度としての学力テスト、IQ測定ではあるが、そのことで自信を持ち道を貫く生徒も多々あり、国家発展に活路を見出す展望もある。
 学力のある優秀な生徒の選別だけでは世の中が乱れるという危惧から精神的な分別を同時に身につけなければと、修身めく授業も行われていると聞く。
 つまり学力だけが独り歩きすることはなく、あらゆる面で総合的に社会から教示を得ることが一般的である。

 学力を身につけるための努力は必須かもしれない。身体能力に等しく鍛錬による成果は如実に実を結ぶことが多い。どのみち専門分野へと進んで行くことで、取捨選択の学力であるから、ダヴィンチのような天才は万分の一億分の一の確率かも知れない。

 努力なしの低学力のわたし、現在の更なる低下は眼を被うほどのレベルである。しかし、そのことで命を脅かされるような問題が発生するわけでもないけれど、学力向上は人としての基本的な義務である。


「学力」とは人間性とは別のものである

 前川幸士(京都府京都市)


 学力とは、学校教育などの学習や訓練によって獲得した知的適応能力であり、人間の能力のひとつの側面に過ぎない。人間性や人間としての魅力と相関するものでもないし、ましてや人間の価値を表すものではあり得ない。
 しかし、各種の入学試験、採用試験は、この学力を中心とした基準によって選抜される。人物をみるための面接、適性をはかるための適性検査等も行われるが、学力を計測するための筆記試験が最も重視されるのが常である。それが、最も公平な判断基準となるからである。結果的にみて、必ずしも、最も適格な人材が選抜できるとは限らないが、選抜試験の基準が公平であることが優先されるためである。
 入学試験でも求める学生像、アドミッション・ポリシーが示されるようになっているし、企業組織においても同様のことが行われている。しかし、一般的な学力試験で採用する人材を選抜する場合、割合が多いことに変わりない。学力や学校の成績が、必ずしも労働者としての機能的価値を示しているとは限らない、学校の成績がよくても仕事ができるわけではない。
 公務員試験を例にみると、公平な基準によって適格と認定された者がその職に充当されるのが原則である。任用にあたっては、公平な基準により能力を試験し、適任と認められたものを選抜することが公務員法に定められ、世襲や縁故採用等を否定する立場から成績主義・能力主義が原則とされている。この原則を遵守するため学力試験が課されている。
 世界最大の官吏登用試験である科挙においても最も重視されたのは学力検査であった。科挙は、中国において約千三百年にわたって実施され、家柄ではなく公平な試験によって、才能ある個人を官吏に登用する革新的な制度理念を持つものであった。その効力が発揮されるのは、安史の乱以降、五代十国時代の戦乱の中で、旧来の貴族層は没落し権力と影響力が逓減した北宋以降とされるが、それでも王朝を超えて長期間存続した選抜制度である。
 北宋に確立した科挙試験のシステムは、後に多少の改変はあったものの、基本的には清末に廃止されるまで存続する。しかし、試験の内容から、次第に試験偏重主義による弊害を増大させ、「万般皆下品,惟有読書高」という読書のみに特化して、俗事である実務能力に疎い人材を輩出することになる。試験選抜が唯一の立身出世である社会では公的な学校制度も発達せず、経典のみが絶対的価値であり、社会の進化を阻害することになった。
 具体的には、経書を暗誦し、そえを踏まえて詩や文が書けることが、科挙では求められた。詩文をつくる能力が選抜試験の内容となったのは、その作品によって人間性をみるためであるという。三国時代の曹操などはこれを重視したというが、詩文によって人間性を測定することは、試験官にも相当の能力が求められることになる。さらに、これに公平な基準を要求することはかなり困難である。試験官には、そうそうたる歴代の詩人たちが名を連ねているが、公平性がどこまで担保できたか疑問が残る。
 王安石の科挙制度改革によって、詩文などの才能を問う要素より、経書・歴史・政治などに関する論述が中心となったが、それでも結局は筆記試験による学力検査に過ぎない。基本的には儒家の古典の知識と詩文を書く学力を要求するものである。その学力を構成するのは、『礼記』にも記されている「四教」である「詩書礼楽」であり、それは社会生活において不可欠な技術ではなく、生活や仕事に直接関わるものではない余剰的な教養である。このような人文的教養を身に付けることに価値があり、社会的地位を得るためには、それが必要とされたのである。
 学力の語は、日本語特有の語彙であり、現在もその定義が揺れているようであるが、結局は、最も公平な選抜基準に過ぎない。総合的な人間の能力を測るものではない。ただし、これによって社会的地位が確定することはままあり得る。


学力とは必然の糸を手繰り寄せる力である

 山下公生(東京都目黒区)


 学力には、二つの意味がある。ひとつは、学ぶ力のことであり、教育に対する吸収力の大きさを意味し、学力が高いとは、偏差値が高いと同義語に使われている。単純な言い方をすれば、偏差値の高い大学ほど、そこの学生の学力は高いという認識である。これが学力の一般認識であり、この場合の学力とは、学ぶ力を意味し学校教育において教わったことを理解する能力のことである。穿った言い方をすれば、試験をこなす能力ともいえる。そこで、受験塾では試験を上手く処理する技術に焦点が絞られて、試験の傾向と対策が教えられ、名門大学へのパスポート争奪戦の厳しい受験戦争へ突入する。そして名門大学へ入学し、学力優秀証明書ともいえる卒業証明書の印籠を掲げて、学歴社会で人生のエリート街道の第一歩を踏だす。
 教育における学力は、2006年のPISA学力調査で、日本の国際順位が大幅に下がり、この日本の学力低下に対処するために、2007年に法律により学力が定義され「学校教育法第30条2項」で規定された。この学力の三要素は、(1)基本的な知識(2)課題を解決する思考力(3)主体的に学習に取り組む態度とされており、これが現在の教育方針のベースとなっている。この学力とは、現代社会の動向に対応するものであり、世界のグローバル化、IT産業の発展に順応できる人材を育成することに主眼が置かれている。具体的には、(1)経済的有用性を社会に提供できる人材の育成。(2)多様な情報社会に適応できるゼネラリスト的人材の育成(3)幅広い知識を有し多様な仕事をこなせる人材の育成である。かつて産業革命で熟練職人による高価な製品製造から、大量生産式の安価な製品製造への仕事の変化があったように、IT産業の発展により知的情報は、広範囲の知識を有する者により再構築が成される。教育とは国家が需要する人材を育成して社会へ供給するものであり、教育の内容は、世界情勢と国家形態と時代と社会の変化に伴い変わり、学力の定義も変化する。
 この学力の歴史的流れを観望すると明治以前の学力とは、読み、書き、そろばんが基本的な学力であり、それ以上の高度な学力は、士農工商のそれぞれの職種の熟練者が後輩を教育した。武士は封建制度を支える儒教思想を、農業・漁業の一次産業は自然法則の経験則を、職人は工学的知識と日本の伝統美を、そして商人は金銭収支を早く正確に把握する能力を、そして、それぞれの仕事の成果が学力を測るバロメーターであった。やがて明治時代、開国となり国家が国際社会で生き抜くために、政府は国家を支える多大な人材の確保に迫られた。技術・工学の根底となる自然科学が理解できる人材、市場主義経済が理解できる人材、そしてナショナリズム的天皇中心の法治国家を築くために儒教的国粋思想を身につけた人材などである。それらの人材の供給のため、学校制度が発足して、現代に至るのであるが、教育理念のおける大きな転換期が戦後の憲法による象徴天皇の明言である。
 以上が教育における学力の概要であるが、学力には学問をする力の意味がある。学問とは端的にいえば、哲学のことである。自然科学や政治経済などの実学は、学校教育において教えられているが、哲学とはその根底を支えている思考や思想のことである。具体例は自然科学の認識論や確実性の根拠を支えているカントの純粋理性批判のことである。イギリスで小学生に哲学を教育した結果、学校の学力が飛躍的に向上した事例がある。この哲学をする力こそが学力の本質である。自然界や社会における偶然の現象は、深く洞察すると、実は必然の法則の基に在ることが見いだせる。この必然の法則を発見していくことが哲学であり、それをする力が学力である。つまり、学力とは必然の糸を手繰り寄せる力である。そして、この必然の糸を放つ者とは、唯一の神の存在にほかならない。


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