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第104回

摂受とは何か
 

(五十音順に配列させて頂きました/編集部)


 


原点は母子の絆

 鈴木康央(奈良県奈良市)


 現代の一番の時弊は、横紙破りに自己主張し、嘘でも何でもでっち上げて宣伝することが一般化してきたことだと思う。言った者勝ちの世界である。おまけにITの進歩を利用し、偽画像、偽動画を流して我が身を防御する。こういう道徳紊乱者がいかに多くなったことか。
 やんぬるかな、世界を導いていくべき大国のリーダーたちが揃いも揃ってそういう人間なのだからどうしようもない。そんな世界に生まれてきた子どもたちに「正直な人間になれ」などと諭したところで聞き入れられるわけがない。今後ますます平気で噓をつく利己主義人間が増えていくだろう。そしてそういう国家同士がぶつかると、当然ナショナリズムの名のもとに相手国を非難、罵倒することになる。
 そういう人間は、相手が謝罪しようが言い訳しようが許そうとしない。むしろ一層責め立てる。それはおそらく自分がそうだもんだから相手も嘘ついてごまかしているのだろうという思い込みが第一。さらにひょっとしたら自分では無意識ながら、相手のその卑怯な態度に鏡のごとく我が姿を感じ取り、反作用的に追いやられた自責の叫びかも。ともかく黙っていやしない。
 またいわゆるパワハラ、カスハラなど、いかに日頃ストレスを溜め込んでいるか、いかにその鬱憤をはらそうとしているかを明示したようなもので、相手を罵っているうちにその自分の罵詈讒謗にますますエスカレートしていき、しまいには相手の失態のことなど忘れて、ただ責め立てることが目的となるようなこともままある。逆に、小学生でも浅い知識だけは持っていて、先生の注意に対して「今のはパワハラだ。そんなこと言ったらクビになるよ」などと毒づく生徒もいるそうな。
 さて、いよいよ世も末かと思われるような現代社会のその悪風をつらつらと書き並べてきたのは、今回のテーマ「摂受」がいかに欠如しているかを示したかったからである。「摂受」とは先述の言動とは正反対の態度「相手の非を責めずに受け容れること」に他ならない。
 要は心の問題なのだが、現代は頭と口を優先し、心など不明瞭なものは敬遠、というより無視されがちである。しかし言わずもがな、少なくとも人間を名乗るなら口よりも頭よりも心でしょうが、と言いたくなる。では学校でもっと「道徳教育」に力を入れようと考えるかもしれないが、そんなのは屁の突っ張りにもならない。むしろ反抗心を駆り立てることになるやもしれない。そもそも「道徳」など学校で「教育」できるものではない。
 さっき「心の問題」と書いたけれども、これは「魂の問題」と言い直そう。魂は教えられるものではない。触れ合い、感じ取って育まれるものである。ということはまず家庭、特に幼き時の母親との接触が何より重大な意味をもつ。母親の子に対する無償の保護、これこそが「摂受」の原点であろう。
 ここ1世紀ほどの母親の思考ないし行動に多大な責任があるように思える。確かに技術の飛躍的進歩による便利な生活、平等意識の普遍などの背景もあろうが、母親たるもの、まず第一に自分の手による子育てであろう。今それが疎かになっているがために「摂受」を欠いた世の中になっているのだと思う。


摂受とは自立への道である

 平川己津子(東京都品川区)


 摂受は相手を受け入れ、見捨てることなく、護り導く慈悲のはたらきという意味の仏教語である。単純なる寛容や妥協ではなく、相手の状況を否定せずに、受け止め、教えへと導く仏門における積極的な方法である。近い思想に親鸞の重んじた「摂取不捨」という語がある。これも衆生を慈悲のうちに受け入れ、決して見捨てないという意味とされる。しかし、摂受は主として他者を導く側の態度、方法を示すのに対し、親鸞の摂取は阿弥陀仏の本願力による救いそのものとされる。人間による摂受というより仏が人を摂取するという意味が大きい。摂受は「受け入れる」、摂取は「取り収める」ことにそれぞれ重点が違い、前者は教える側の教化の方法論として語られ、後者は浄土宗の文脈で用いられる。
 ここで重要なのは、摂受は「代わりに歩むこと」ではなく、見捨てずに守ることであり、肩代わりをすることとは異なる。肩代わりは相手から自身で歩む機会を奪って、かえって依存を高めることになる。摂受は相手の歩みに寄り添って傍にあって、必要な時に支え、しかし歩みは相手自身であることを手放さない。伴走と言い換えることもできるだろう。並んで走ることで、ゴールまで背負ってやるのではなく、相手が自ら走りぬくことを後押しする。傍らにいることで相手に自信を生み出すことも助ける。
 そもそも人が自らの足で社会に歩みだすための、その前提には「自分は受け入れられている」という確かさが必要である。誤り、弱さなどを責められ拒まれる場では、自分を守ることに力を費やし、自らを省みる余裕がなくなる。摂受は相手を否定せずに受け止めることで相手の変化の為の土台を据える営みである。相手の立つところから一緒に出発をする。それは穏やかなふるまいであり、相手が自ら気がつく時間を保証することになる。受け入れられた者がやがて自分の足で歩みだすといった、この道程は人を育てるあらゆる社会的な場面に通じるといえる。見捨てないことは、縛ることではない。信じて待ち、歩みを相手に委ねることまでを含んで、はじめて摂受は自立への道となる。


摂受とは水平線の日の出を仰ぐことである

 山下公生(東京都目黒区)


 仏法で衆生を導く場合二つの方法があり、摂受(しょうじゅ)・折伏(しゃくぶく)の二門ありという。衆生の善を受け入れ摂め取って(おさめとって)導くことを摂受といい、摂引容受(しょういんようじゅ)を略した仏教用語である。衆生の悪を挫くじいて導くことを折伏といい、折破摧伏(しゃくはさいぶく)を略した仏教用語で、悪を打ち砕き、迷いを覚まさせること、あるいは、屈服させることである。摂受と折伏は一対で表裏一体であり、摂受の阿弥陀如来の四方を守る、折伏の持国天(東)、広目天(西)、増長天(南)、多聞天(北)の仏像にそのイメージを重ねることができる。あるいは、密教の本尊の大日如来が表で摂受であれば、その裏の姿は、折伏の不動明王といわれている。
 摂受と折伏の教理誕生の要因は、鎌倉時代に広まった中国起源の末法思想である。その要旨は、釈尊の入滅後しばらくは、正法の時代が続くが、やがて悟りを得る者がいなくなる像法の時代、そして、経典のみが残る末法の時代へと移っていき、ついには法滅に至るという思想である。鎌倉時代は、末法の時代とされ、末法の時代に入ったということは、「修行しても悟りを開けない時代」で、末法の世は自力では救われないので、釈迦の入滅前の言葉「私にすがる者は、仏と成り必ず救う」を信じ「他力」、つまり「阿弥陀仏の力にすがる」という、念仏の浄土宗が生まれた。浄土宗では、念仏すなわち「南無(帰依します)阿弥陀仏に」を唱えることが究極の摂受といえる。
 これに対し、「自力」の日蓮宗は、末法の時代を修正しない当時の仏教に対し、その教えを正すことを折伏とし激しい論戦を挑んだ。1.(念仏無間)・浄土宗の念仏を唱える者は、カエルの鳴き声に等しく無間地獄に堕ちるとした。2.(禅天魔)・禅宗は不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏の義を立てている。すなわち、経典は月をさす指であり、月(成仏の性)が捉えられれば指には用がないとした。これに対し、法華経を崇拝する日蓮は、禅は天魔の振る舞いであるとした。3.(真言亡国)・真言宗は、呪術による護国の祈祷をし、蒙古襲来を背景に、朝廷や幕府に重用された。日蓮は、真言宗が説く内実のない呪術性を折伏し、これを「護国」の法と帰依すると「亡国」に至るとした。4.(律宗国賊)・真言律宗の良観房は、鎌倉幕府に取り入って、種々の利権を手にした。一方で祈祷僧として、幕府の要請で祈雨や蒙古調伏の祈祷を行ったため、真言律宗を国賊とした。日蓮の折伏に対し禅宗と真言宗は、荒唐無稽な妄僧であると、まるで相手にしなかった。浄土宗は、その折伏を凡夫の戯言とした。良観房に至っては激怒し、幕府に訴えたため、日蓮は流罪となり佐渡へ流された。日蓮が折伏した如く真言宗の祈祷により、日本が蒙古襲来から守れたとは、まやかしである。しかし、同時に日蓮が主張した日蓮の題目勤行によるものでもない。勇猛果敢な天草水軍や菊池氏などの九州武士に恐れ慄いた蒙古軍が、恐怖のあまり夜は、数珠繋ぎにした船団に帰り、台風によりその船同士が衝突し沈没したのが事実である。
 キリスト教において摂受と折伏に相当するものは、神が行なうものであり、人が行使するものではない。人が人を裁く意味の折伏は存在せず、神が人を直接裁くこともない。人を闇へ導く悪魔に対して神が為すものである。聖書の申命記に「復讐と報いは、わたし(神)のすることである」と啓示されている。摂受は神の恩恵を意味し、神が穢れた霊を祓うことで、信徒は共に神のもとへ向かい救われることを旨とし、そこで永遠の命を授かる。また摂受とは、神がこの世の闇に光を放つ意味でもある。聖書に「神から遣われし、まことの光は、世に来てすべての人を照らす」(ヨハネ1章)とある。つまり、摂受とは水平線(この世の闇)の日の出(この世を照らす光(イエス))を仰ぐことである。


「摂受」とは、私たちが考え方を学び、生活に活かすことが望ましい思想である。

 COOL(岐阜県加茂郡)


 「摂受」を国語辞書で引いてみたが、掲載されていない。ネットでAIに尋ねてみると「人々を教え導くために、その善い行いや主張を受け入れ、おさめとること」「相手をすぐに否定せず、寛大な心で包み込んで仏法へ導く方法」と出た。私たちの生活において使用できる意味は後者であろう。後者の意味は言いかえれば、相手の話を傾聴し、共感した上で仏法の道へ導くこと」となろう。仏教に私は詳しくないが、その意味だとすれば私たちの生活に活かせる内容である。
 コーチングとは「相手の自発性を引き出すための「傾聴・質問・承認」の3つの基本スキルを軸に対話を重ねること」(AI)である。この「傾聴」「質問」「承認」こそ、「摂受」そのものである。相手の話に耳を傾け、要所要所で質問を施す。さらに相手の言う内容を承認する。仏法の世界に導くか導かないかという違いはあったとしても、これはコーチングの世界と通じるものがある。
 「相手をすぐに否定せず、寛大な心で包み込んで仏法へ導く方法」という点の、「相手をすぐに否定せず」という点が大事であると感じている。相手の言い分をきちんと聞き、いったん受け入れる。それはどんな場面においても大事な点だろう。もし話そうとしていきなり否定されたら、その後の話を続けようという姿勢は無くなってしまうだろう。相手を認め、広い心で受け入れるという点は、コーチングの世界ではよく指摘されるところである。気官房だった私などは小学校で、何か事件が発生すると「どうせ悪いことをしたのはお前だろう」とよく言われたものだが、それなどは「摂受」の意味からは遠い位置にあるだろう。
 後半の「寛大な心で包み込んで仏法へ導く方法」では「寛大な心」という点が重要だろう。寛大とは「心が広く思いやりがあるさま。度量が大きいさま」(『集英社 国語辞典』)だが、怒ることなく相手を導くのは相当の力量がないと無理だろう。この点は仏法の高い域に達した人でないと、無理な行動かもしれないが、私たちが冷静になって話を聴いたり、相槌を打ちながらうんうんと聞いたりするのは、まさにこれである。
 そう考えると「摂受」とは、私たちのこれからの生き方に直結している気がする。ちなみにネットで調べてみると、「摂受」は「折伏(しゃくぶく)」とよく比較されるらしい。
試しにあるサイトにこうある。
★折伏(しゃくぶく)
意味:相手の誤った考えや宗教(邪義・邪法)を厳しく破折し、正しい教えに服従させる方法
特徴:力強く圧倒したり、ハッキリと間違いを指摘したりして導く。
★摂受(しょうじゅ)
意味:心を寛大にして相手の意見や間違いをすぐには責めず、温かく受け入れて穏やかに説得する方法。
特徴:相手の立場や主張に寄り添い、少しずつ正しい道へと導く。
 ここから考えると、「折伏」はディベート張りに相手を論破し、パワーによって相手を屈服させることになる。「摂受」はそうではなく、相手の自発的な気持ちを大事にしながら意見を引き出し、納得させる方法である。どちらが良いかと言えば、間違いなく「摂受」だろう。コンプラが厳しい昨今だからこそ、私たちは「摂受」の考え方を学び、生活に活かすことが望ましいだろう。


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