哲学カフェ

 

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第103回

覚醒とは何か
 

(五十音順に配列させて頂きました/編集部)


 


覚醒は、ある時期の社会=政治的な状況のなかの関係性のなかで生まれ、他者が「推す」という「応援の思想」なくして覚醒はない。

 島袋櫂(愛知県)


 覚醒の起爆剤は性である。
 他者との関係性が、時代の興隆の一部であるとき、労働や社会活動、文学活動の興隆が生まれる。
 また、作家は時代の精神を負っているから、その総体の浮き沈みと生き、時に死す。
 政治、社会的な覚醒の挫折により、個人の時代との関係性が分断され、その人の覚醒が醒めることがある。
 村上春樹や村上龍は、トランプの時代、アメリカの衰退によって、時代の精神が滅びつつある。村上春樹は、しかし、その新作で、その「お噺」に仕立てる丸っこさと、セックスがなく、女性が主人公であるという新しい試み、また、文芸雑誌に掲載し、電子書籍でも発売するという柔軟さを見せた。時代の精神と作家個人の年齢的な課題との重なり合いなど、要因は複数ある。
 文学的な活動は、政治的な抑圧に対する反抗として生まれるので、政治と文学の覚醒は裏表である。政治は、性や金を動源とはしてはいけないという建前があり、それは人間には無理であり、だから、全て、くだらなく、人は人間ではいられない。人間とは優れて、性のために生きるものである。
 今の時代の本質は「覚醒の挫折」である。コロナのあと、地球温暖化の対策により世界が激変し、世界史上の終末であり、日本でも、新たな時代の空気があった。しかし、政治的に汚職は隠蔽され、新しい時代の機運は失した。私は何も、野党が良いとは思わないが、それでも、今の政治状況は、政権を支持する人も、「正義」とは思っていないだろう。ただ、「国益」云々である。
 コロナのあと、時代の磁場のようなものがあった。皆、今の時代は、何か、特別な頃であり、「何か」が生まれていると感じていた。
 似非宗教的なことは言いたくないが、時代を引っ張ってこられた人物の死が重なった。
 井上陽水の歌のフレーズに「涙は飾りじゃないのよ」というものがある。悲しさはある時期を過ぎたら、忘れなければならない。
 そして、自分でないものは、他者との出会いによって強制的に手渡される。
 人間は「生への欲求」が「死の欲望」を上回る生物である。負の行為も、生存のために意味があるから、取っているのだ。
 時代=社会、政治との連結が、個人の生活にそっと入り込む。それこそが、その人を覚醒させる「本当の現実」である。
 人間は決して、一人では覚醒できない。「推す」ということが盛んに言われるが「応援の思想」なくして、スポーツ選手も、クリエーターも覚醒はない。
 どれほど素晴らしいスポーツ選手も、観客席なしでは、最高なプレーはできず、どれほど優れたクリエーターでも、ひとり(パートナー)には読者を求めるものだ。
 「応援の思想」なくして、人は覚醒できないが、その人の個人的な生活がない限り「応援」によって束縛し続けられるだろう。
 人間は、「努める」という本質的な希望があっても感覚的に辛いと感じていることがある。本質的な幸せではなく、感覚的な自由を時に取らざる得ない時があるのだ。例えば、スポーツ選手は、極限まで練習し、それは勝つために自ら望んだことだ。しかし、しかし、同時に「辛い」という気持ちを抱える普通の人間なのである。本質を追わず、時に休憩、個人的な時間を取ることも大切なのだ。
 しかし、その応援に縛られ、重荷に感じながら、「応援の思想」なくして、決して、パフォーマンスできないだろう。
 しかし、すべての人間は、必ず「個人的生活」を持っているものである。それを抹消することはできない。
 「応援の思想」は、自分でない、全ての事象から受ける。たとえば、スケジュールや締め切りや社会的な関係性における義務も。
 人は完全に孤独になった時、「覚醒」をどこか求めるものであるが、「覚醒」は関係性のなかでしか生まれない。他者、事象たちに縛られながら、そっと「応援」されながら生きるのである。
 そして、日本のある時期、時代も、人類史上、そして、環境や移民・難民というより大きな時代の文脈のなかで覚醒しているのだ。


AIが覚醒すれば・・・

 鈴木康央(奈良県奈良市)


 覚醒の第1段階とは、その長さを問わず眠りから覚めることである。即ち「目覚め」である。取りたてて言うまでもないこと。
 第2段階は、精神的な目覚めとでも言おうか。自分と周りの世界を深く見つめ、これまでの人生を省みてその放恣な生活を忸怩たる思いで慮ることである。いわば反省と心機一転の時である。
 第3段階の覚醒とは、時として先の第2段階と殆んど同時に特定の人間の心の内に生じる変化。何かがその心の鐘を打ち鳴らし、「立て、戦え」と喚起するのである。そして彼、彼女らは奮起する。かくしてジャンヌダルクやゲバラといった革命家が誕生する。第2段階が内向的であるのに対し、これは外交的な覚醒である。
 第4段階の覚醒を経験した者は古今東西ごくわずか、おそらく十指にも及ばないだろう。釈迦のような、いわゆる聖人と呼ばれた人たちの覚醒である。この世の道理、宇宙の摂理、千古不易の真理を把握すること、つまりは「悟り」である。強いて言えば、世の救済への覚醒ということ。ここで言っておかねばならないことがある。それはこれまでにも様々なテーマで述べてきたことの繰り返しとなるかもしれないが、現存するあまたの宗教とは無関係であるということを強調しておきたい。ほぼ全ての現役の教祖など決して「悟り」の境地には至っておるまい。「悟り」とは個人の覚醒に他ならない。イエスも釈迦も宗教ではない。後の人間がキリスト教なり仏教に仕立て上げたにすぎない。ひどいのになると端から自らを教祖として宗教団体を設立しているのがある。ひょっとしたらこれが大半なのかもしれないが、要するに宗教ビジネスであって、覚醒どころか金に血迷っている状態と言った方がいい。
 さて、第5段階の覚醒はいささかSF風になることをお許し願いたい。何分未来のことなのでそうならざるを得ないのだが、私がとても懸念していることなので。それは無機物の覚醒である。まずはイヌ型のロボット。金属かプラスチック製か、ともかく形体は犬でそれなりの動きをするのだが、私などどうしても抱いてみたい気にはならない。ちなみにネコ型ロボットなんてあるのだろうか。猫は金属とは対極のイメージで、洗面器に丸く収まるその不思議なからだは液体に近い。・・・まあどうでもいいことだ。そのイヌ型ロボットがすでにそういう機能を備えているのかどうか知らないが、甘噛みさえするとしよう。しかしある時いきなりガブリと指を喰いちぎってしまった、ということになれば、それは単なる故障であっても、飼い主(持ち主)たちの間では重大事件となるだろう。飼い犬に手を嚙まれたどころではすまないのである。
 問題はその次、コンピューターのフリーズなどではなく、AIの覚醒である。そもそもコンピューターは無機物の集合対なのだから、いくら似せようとも頭脳のように有機的に結合、進化する筈がないと思われていた。しかし、失敗するプログラムを組み入れ、自ら考える能力を与えれば、無機物も判断力を持つようになるのではないか。正に「2001年宇宙の旅」のコンピューター『ハル』や「ターミネーター」のようなことが現実化するのでは?
 この覚醒は「反乱」となって人類史上最強の敵となり、同時に人類最期となるかもしれない。ベルグソンが「笑いの研究」で、笑いとは人間的なものに機械的なものが張り付いたものと言っているが、機械的なものに人間的なものが付いた時、それは戦慄でしかない。


覚醒とは目の覚めている状態のことである

 前川幸士(京都府京都市)


 覚醒とは、刺激を感じて活動することができる状態のことである。要するに眠っていない状態、意識が保たれている状態を示し、周囲に注意して、場所・時・人物関係・状況を正しく認識できる状態である。そして、その結果として、適切な反応・行動をとることができることになる。
 逆に覚醒していない状態が、眠っている状態つまり意識を喪失している状態であるが、これには生理的・可逆的な睡眠と病的・持続的な昏睡とがある。脳橋から中脳後部を通り視床下部にいたる網様体という中枢の機能が低下している状態が覚醒ということである。
 人間が覚醒していない時、睡眠中などに見るのが「夢」であり、人間の脳が覚醒しているときに思い浮かべることができるのが「影」である。
 『万葉集』には「天智天皇挽歌群」と呼ばれる九首の挽歌がある。国歌大観番号147から155の歌がこれに相当する。これらの歌は、671年に亡くなった天智天皇の危篤から葬送の後までを、彼と関係のあった五人の女性が歌に詠んだ作品群である。この中の一首、149番の歌に「人はよし思ひやむとも玉葛影に見えつつ忘らえぬかも」(巻二149)がある。
 作者の倭大后は、自分はずっと思いつづけて、亡き夫の影が心の眼で見えるという。たとえ、他の人が思うこと、意識することを止めても。自分は影に見えながら忘れないとする。ここで影は面影と解釈できる。身・実が実体そのものであるのに対して、影はその身が映し出された姿である。亡くなった天皇の身・実を見ることはできなくても、眼前には影・面影にその姿を見ることができる、面影がちらつくのである。覚醒して意識が明瞭な時に影を見ることができるという。
 これに対して、次の150番の歌は「うつせみし神に堪へねば離れ居て朝嘆く君放り居て我が恋ふる君玉ならば手に巻き持ちて衣ならば脱く時もなく我が恋ふる君ぞ昨夜の夜夢に見えつる」(巻二150)というものである。
 この歌の作者は、生前に天智天皇の寵愛を受けたであろう姓氏未詳の婦人であり、亡き天皇の姿を昨夜の夢で見たと、夢を見たことを歌として公表するものである。玉や衣のように愛する人の持ち物の一部となって常に共に在りたいとしながら、夢でしか逢えないという。この歌では昨夜姿を夢に見たが、朝になって目が覚めて現実世界に引き戻されると、そこに姿はなく、「朝嘆く君」とあらためて亡くなったことを思い知らされるとしている。従って、夢の中でしか逢うことはできない、覚醒時には逢えないのである。
 倭大后つまり倭姫王は、天智天皇の皇后であり皇族である。公的に身分や立場を保障されている妻である。この二人の間に子はない。彼女は覚醒中であっても意識することで、亡き天皇の姿を常に見ることができると詠む。これに対して、愛人のひとりに過ぎない姓氏未詳の婦人は、覚醒中には天皇の姿を見ることはできない。覚醒していない時に夢で姿を見たと、歌で公的に主張したのである。
 倭大后の「人はよし思ひやむとも」からは、他人のことについてはどうでもよいという気持ちが読み取れる。歌として公的に記録されるからには大后としての立場は公式のものと考えられるが、妻という私的立場からの発想で、個人の感情の発露を歌に詠んだのである。葬儀の場には、さまざまな人が集うものである。逆に考えれば、その場は自分の立場を主張する場ともなり得る。この歌には、倭大后の大后としての意気地あるいは矜持のようなものさえ感じられる。
 覚醒して意識が明瞭な時に投影視が可能であるのと、覚醒していない時に意識しなくても投影視が可能であるのと、いずれの思い、偲ぶ心が強いのか、現代人には判らない。万葉時代のことなので、そこには神意が加わることも多い。覚醒している状態がよいと考えるのは現代人の感覚であり、古代人が覚醒をどのように考えていたかは、神意との関係もあり、推論するのが難しい。


覚醒とは神との共存に目覚めることである

 山下公生(東京都目黒区)


 覚醒で連想するものは覚醒剤である。覚醒剤とは服用すると覚醒するのではなく、飲酒による泥酔と同一上にあり、幻覚や幻想による強烈な幸福感に満たされるものである。正確には覚醒剤とは、覚醒したように錯覚する幻覚剤が正確な事実である。覚醒剤は健康な脳に作用し、脳神経の強烈な活性化を促し、生命維持のバランスを調整している制御装置のスイチを切り、バランスを崩した五感がもとに戻すために五感が異常に鋭敏化し、脳が適切に処理できず幻覚、幻想を生じさせるものといえる。正常な人間の視覚領域は、光の波長の380~750(nmナノメートル)、人間が音として知覚できる空気振動の可聴域の周波数は、20~20,000(Hzヘルツ)とされている。また人間の嗅覚は犬の嗅覚の数千分の1程度である。これらの感度は、人間が自然界で生き残るために獲得してきた生命維持のために制御された適正感度だといえる。覚醒剤は、その制御装置を外し生命の危機に至らせるものであり、精神を覚醒させる薬剤ではなく、覚醒したかのように錯覚させる薬剤であることを明確に認識しておく必要がある。
 覚醒とは本来、精神、心、あるいは霊的領域が活性した状態を意味するもので、覚醒剤の作用による幻覚、幻視、幻聴、等の身体の活性偏重状態を表すものではない。つまり、覚醒とは哲学領域から神、仏、心、魂、霊、生死、などの宗教領域にまたがるため、二律背反により唯一の結論に至らない命題であることを前提として語らなければならない。要するに覚醒の形而上構造を説明しても、それが現実に存在するか否かの、形而下結論には到達しないのである。最終結論は、その存在を信じるか否かに行き着くものであり、そのどちらも正しいという二律背反である結論に至るのである。
 古代インド宗教のバラモン教における覚醒とは、宇宙の原理であるブラフマーと自己生命のアートマンとを循環させることである。人間にはアートマンである魂の7の扉のチャクラがあるとしている。第1の赤色のチャクラ:ムーラダーラは、生殖器の位置にあり人間の生命エネルギーの源である。第2の橙色のチャクラ:スワーディシュターナは、丹田に位置し性欲エネルギーを調整する。第3の黄色のチャクラ:マニプーラは、みぞおちに位置し、自信と意志力を高める。第4の緑色チャクラ:アナーハタは胸に位置し、愛の源である。第5の青色のチャクラ:ヴィシュッダは喉に位置し、創造力を高める。第6紺色のチャクラ:アージュナーは額の中央、第三の目の位置し、洞察力を高める。第7の紫色チャクラ:サハスラーラは、頭頂部に位置し、このチャクラを開くことによりチャクラ第1~第7よりエネルギーが流れていき、そのエネルギーは宇宙の原理であるブラフマーと循環しついに覚醒に至るのである。そこへ至るための修行法は各チャクラを開くためのヨーガ修行と、ブラフマーと循環させるためにマントラを唱えるのである。
 バラモン教の差別主義的カースト制に対抗するために生まれた仏教における覚醒は、悟りであり、輪廻の呪縛より開放されて浄土の世界に生きることである。中国における覚醒は、儒教においては社会的道義を会得し生きること、道教においては自然の根源に臨在する道に委ねて生きること、そして易経においては陰陽五行の道理に従うことである。そして日本文化における覚醒とは、人間と自然との阿吽の調和に生きることである。以上が東洋哲学を中核した覚醒の歴史要約である。
 そしていよいよ、宇宙のすべてを統治する神の存在を前提とした究極の覚醒とは、神との共存に目覚めることである。それは如何にして証明できるのか。また実証できるのか。それは論証ではなく啓示により。科学的実証ではなく奇跡により、そして紛れもない宗教体験によりて。


覚醒とは、間違いなく「迷いから覚めて自分の非を悟ること」である。

 COOL(岐阜県加茂郡)


 「覚醒」と聞くと「覚醒剤」を思い出してしまうのは、それだけニュースで報道されているからだろう。「覚醒剤所持で逮捕された」「覚醒剤を国内に持ち込もうとして逮捕された」などのニュースは、一般人だけでなく、有名人でもそうした類の報道はある。覚醒剤が日本に持ち込まれる危険性はいつだってある。
 この場合の「覚醒」とは、「神経を無理やり興奮・覚醒させて活動状態にする薬物」(AI解答)のことである。「無理やり興奮させる」、そして、それに伴って異常行動を起こす点に覚醒剤は問題がある。「覚醒剤」に良いイメージがないのは当然であり、逆に良いイメージがあっては人々にとって良くないだろうと思う。
 元々「覚醒」とは「目が覚めること。また、目を覚ますこと」(『集英社 国語辞典』)である。「目覚める」という言葉を使わず「覚醒した」と言うと、格好良さが加わってくる。我々は「覚醒した」とは言わないだろうが、中にはそれを会話で使用する人もいるだろう。その前に「覚醒剤」の「覚醒」というイメージがあるので、「覚醒した」という使い方には抵抗があるのは間違いない。
 「覚醒」にはもう一つ「迷いから覚めて自分の非を悟ること」(『集英社 国語辞典』)という意味がある。あるいは、「例えば、それまでの自分の過ちを心から反省し、「自分が悪かったんだ」と悟ること。これが「覚醒」である。むしろ、こちらの意味の「覚醒」が一般的ではないかと感じる。マンガなどでは「覚醒した」というセリフが出ることもある。大抵ピンチに陥った主人公が、新たな力を得るときに使う言葉だが、それはこの意味で使用されている。
 典型的なのは「ドランボール」だろう。主人公の悟空が怒りから本当の力を発揮したとき「覚醒」そのものである。怒りを力に転換することが「覚醒」へとつながっていく過程が、読者を惹きつけるのだろうと思う。「ドラゴンボール」だけでなく、「東京喰種」「エヴァンゲリオン」なども「覚醒」のシーンはいくつかあったように感じている。
 大事なのは、この「覚醒した」は無理やりではない点だろう。覚醒剤が「無理やり」人を目覚めさせるのであるのに対し、この場合の「覚醒した」は、自分を見つめ直し、その結果悟りを開くことであるから「無理やり」ではない。「覚醒」は自然とそうなるのが本来の意味であり、無理強いして目覚めさせるのは間違っていると言える。
 私も「覚醒」の体験がある。進路をどうしようか、迷っていた時期に、「やるべきことをきちんとやってこなかった自分が悪いのだから、進路に迷うのは仕方がない。今できることをやるしかない」と悟ったことがある。これはまさに「覚醒」であり、それ以降目覚めたように勉強に取り組めたものである。
 「覚醒」とは、「迷いから覚めて自分の非を悟ること」である。迷いがまずあり、それを克服したうえで自分の非を悟る。このプロセスの中で人は成長するのだろう。その意味で「覚醒」は成長に必要なプロセスであると言える。私たちは覚醒剤ではなく、自然の「覚醒」を使って成長したい。


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