哲学カフェ

 

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第88回

神話とは何か
 

(五十音順に配列させて頂きました/編集部)


 


僕らの世界

 あゆみ(東京都大田区)


神々の狂ったようなお話。
不思議なようで当たり前の、つまらないお話。
残酷だから、お子さま向けに記するね。

神様は様々なモノを作ってきた。こんな世界に。
神様は動物を作った。どうしてだと思う?
肉を食らい、繋いでいく弱肉強食の世界を見たかったからさ。
神様は人間を作った。どうしてだと思う?
人間が人間に恋をして、愛を伝え合うのを見たかったからさ。
人間はとても臆病な生き物で、一人じゃ生きられなくて。神に願うよ。
神様は花を咲かせた。どうしてだと思う?
ある男がある女に恋をして、運命を捧げるのを見たかったからさ。
ある男はとても美しい生き物で、二人で生きていたいと。神に願うよ。
神様は絶望を作った。どうしてだと思う?
守るための裏切りを、認めたくない正しさを突きつけたかったのさ。
真実の反対は嘘なのか。神に問うよ。
神様は地獄を作った。どうしてだと思う?
きっと、幸せの反対も無いといけないなんて、ふざけたことを思ったんだ。
それでも這い上がりたいと。神に伝えるよ。

神様は、命を繋げることしかしなかった。
だから、白と黒が混ざって透明になった僕らは、愛してると言葉を探すよ。
神様は、永遠なんて作らなかった。
だから、赤い涙を流す僕は、さよならと言葉を濁すよ。

神様はとても愚かだ。
こんなにも汚らわしい僕を産み落とし、生かしている。
死んで詫びることさえも拒否してくる。
僕は更に愚かだ。
まだ、生きたいと思ってしまう。愛されたいと、愛していたいと。

信じる者は救われる。
よく聞く話だよ。
だから、僕は、君がくれた赤いバラを、ずっと想ってる。
神様が大吉をくれるより、君の笑顔の方が、僕の心は、太陽のように光り輝き温かくなる。

残酷な真実を描く神より、拐われたように夢を見させてくれる君の方が、よっぽど僕にとって神様だよ。
あいしてる。

神様は様々なモノを作ってきた。
神様は全てのモノに終わりを作った。
まだ、この命が終わらない。
だけど、この命が在りたいと思う理由は終わった。


非に地上的な内容と、キャラクターの個性で受け継がれてきた物語

 くうる(岐阜県加茂郡)


 神話とは「古代から自然界の現象を、超自然的な力をもつ人格的存在に託して説き伝えられてきた民族的、宗教的な説話」(『集英社 国語辞典』)である。「超自然的な力をもつ人格的存在に託して_」という箇所が神話の骨頂である。つまり、神話とは人の力を超えた世界での話であり、普通にありえない話だからこそ人間世界で生き延びてきたと言える。さらに、キャラクターの人間臭さがあるからこそ受け継がれてきた点もあると私は考えている。
 神話と言えば日本だと「古事記」だろう。日本武尊の物語は私も幼いころによく読み聞かせてもらったし、日本武尊の強さに憧れたり、嫉妬したりしたものだった。所詮神話であるとわかってはいても、そこに登場するキャラクターを人に置き換え、考えるのは至極当然であり、そのせいでキャラクターに嫉妬するような事態に陥ったのだとも言える。
 これは神話自体が人間の作り出したものであり、人間をモデルにしているからだろう。神と言うと人間からは遠い存在であり、力など及ばない存在として描かれるが、神話に登場する神々は確かに人間よりははるか上に存在しつつも、人間に寄り添った存在であるのは間違いない。ギリシャ神話のナルシスは自分の美しさにほれぼれし、それが原因でスイセンになってしまったという逸話は私の好きなものの一つだが、これも人間臭さが現れている。自分の美しさに憧れて鏡に見入るという動作は人間だれしもあることだし、例えば出かける前に鏡を見て自分の格好をチェックすることもまただれしも経験あるのではないか。「ナルシスト」という言葉を聞くだけで私たちが「ああ、それはこういう意味だ」とわかるのは、この神話の面白さと、登場する   
 キャラクターの人間らしさがあるからであると私は思っている。
神話と言えば、私たちは神話から出た言葉を日常生活でもよく使用している。「愛」に関して言えばエロス、アガペー、ビーナスなどの言葉は日常生活に浸透しているように思う。私たちはそれらの言葉が神話から出たとは知らなくても、言葉の意味はわかっている。それだけ神話の力が強いという証拠だろう。これは神話がそれだけ人々の間に浸透していると同時に、緒やから子どもへ、子どもから孫へ、神話が受け継がれている証拠でもあるだろう。私も神話を読み聞かせてもらい、それがきっかけ我が子にも読み聞かせをするようになった。神話の面白さは内容の面白さだけでなく、キャラクターの個性などが相まっている点にあると感じている。神話が神の物語であるのは確かだが、それが神の厳粛さを教えるだけでなく、神に対する興味や関心を育むとすれば、神話には様々な効果があるのだと考えられだろう。
 神話自体はいつできたのかは不明である。恐らく作った人たちは神の尊さを人々に知らしめたいという思いから作ったのだろうが、それが何時しか物語の面白さが優先され、代々まで語り継がれるようなったのは皮肉である。もっとも、そうならなければ、神話は後世まで残ることはなかったろう。教訓ばかりの物語が途中で消えてしまうように、神話が教訓だらけだったら私も読み見聞かせてもらえなかったに違いない。
 神話とは『非に地上的な内容と、キャラクターの個性で受け継がれてきた物語』である。それは間違いない。そう考えると、個性あるキャラクターを生み出した先人たちはなんとすごい人たちなのだろうと思う。神を尊敬し、それを後世に伝えたいという思いから神話を作った。そんな人たちの努力は称賛に値する。私たちはこともから孫へ、さらにひ孫へと神話を後世まで伝えることで、そんな人々の努力に報いたい。


現代文学が神話を描くには、地域のナラティブによるマジックリアリズムを描き、ローカル=フェミニズムを文体とする「創作の聞き書き」を書くことである。

 島袋櫂(愛知県豊田市)


 日本人にとって、太平洋戦争以前は、有史以前だ。それはすでに「ありえなかった頃」と「否定した帝国」として日本人の無意識にある。現代における神話とは、地域に眠る、お年寄りたちの語る昔話である。戦争の、貧しかった時代の、素朴だった頃を。
 そして、現代における神話はナラティブで語られる。そして、そこには、遠野物語にみるような科学一辺倒で見なくなった狐が化けて出たり、お化けが実在したり、あるいは作家の想像力の「共同の幻想性」によるキャラクターが闊歩しているべきなのだ。
 それは「ローカル=フェミニズム」の文体をとる。「ローカル=フェミニズム」とは、地域の女性の暮らしに根ざした文化的な保守主義である。しかし、政治的には、保守に傾きつつも、政治にはあえて関わらないか、積極的にリベラルなことがある。
 田舎でセンスある仕事をする人に女性が多い。藍染や手工業らで出色の作品をつくる。
 「ローカル=フェミニズム」と云っても女性の特権ではない。「ローカル=フェミニズム」の文体を男性が築くこともできる。作家はもともと中性的かつ女性的な存在だ。
 それは、「詩的なナラティブの森」である。理性の管理を排斥した詩の森である。
 そして、「ローカル=フェミニズム」の文体による創作の聞き書きは、まるで地域の噂話をするような老人を語り部とする。
 「ローカル=フェミニズム」はグローカルである。例えば、センスある女性が営むコミュニティーカフェのような。田舎には「オールド・ローカル」と「リベラル・ローカル」がある。    
 先進的な地域人を「リベラル・ローカル」と名付けたい。「ローカル=フェミニズム」は国際的な感覚に優れながらも、地域の伝統性をすくい上げる感受性があり、すぐれてグローカルな存在である。「ローカル・フェミニズム」の文体は男性的、抑圧的、理性的な文体ではなく、爛漫であり、詩的であり、描写的である。そして、ストーリーでなく、ナラティブで語られる。
 これは、村上春樹とは真逆をいく。村上春樹は、アメリカ文化を全速で吸収し、死の喪失を描くことで現代人の喪失を象徴する現代の神話を築いた。彼は、都会におけるマジックリアリズムを物語った。彼の喪失したものとは、そして、今、彼が、作中で取り返しつつあるものは、地域での他者との関係性や共同体である。
 誤解を避けるために申し上げるが、村上春樹が私の最も好きな作家である。しかし、彼のやるラジオを聴いたが、途中で止めた。ラジオは文学の新たな可能性だと思うが、流れる音楽を、時代の深刻さからは受け入れられないという気もする。それよりは、インディーロックやミニマルミュージックやアンビエントを聴いていたい。
 そして、音楽家の名前を羅列し、聴者の音楽への知識欲を掻き立てるような話し方は彼の特徴ではあるが、教え方としては不親切であるし、あまり流行って欲しいものでもない。
 ラジオの声を彼の文学を読む時に重ねてしまうと、そぐわない気もする。真夜中にぼそぼそとこっそりやるようなラジオの声色こそ、私の求めるラジオ・サウンドだ。村上春樹の声音は、ナラティブで語るマジックリアリズムには向かない。
 最後に、「神話」の位置まで高められた老人が語る戦争をはじめとした聞き書きは、英訳がなされるべきだということを指摘したい。西洋思想からの「和訳」から、東洋思想を「英訳」するパラダイムシフトの時代の文学。それは、電子書籍という新たなメディアを通じて流通し、アノニマスな人々によって記されていかれるべきだ。
 それは、この軍国主義に向かう日本からの平和の汽笛として、日本人のなかにも平和を望む者がいるということを知らしめるのみならず、外国人は作中に浸透した日本思想について読むだろう。


歴史か詩か

 鈴木康央(奈良県奈良市)


 昔話よりももっと昔のお話。神や英雄を主人公にした物語。日本ではイザナギノミコト、アマテラスオオミカミ、スサノオノミコトなど「古事記」「日本書紀」に登場する人物(神)を中心に、おなじみの「ヤマタノオロチの話」や「イナバのシロウサギの話」など、いわゆる記紀神話として誰もが聞いたことのあるメルヘン。
 しかし実際これらは決して単なるメルヘンなんかではなく、事実(往々にして政治的事件)を後世に伝えるために意図的に作り上げた物語である、と諸学者が諸説を提示している。ヤマタノオロチの八つの頭とは何を意味するのかとか、シロウサギがサメを騙そうとして皮を剥がされた真意は・・・等々。そしてそういう学術的解釈も多くの人がすでに耳にして知っている。
 西洋でも「ノアの箱舟」や「海が割れて道ができた話」からイエスの数々の奇跡物語があり、それらに対し同様にアカデミックな解釈が試みられてきた。そしてそれがために宗教から遠ざかっていった人々も少なくないだろう。
 また洋の東西を問わず、世界に共通する神話が存在することに注目して、そこに人間の精神の本質的基盤を探ろうとした学者たちもいる。ユングなどその筆頭。
 さて、こういったことを踏まえて考えると、我々が「神話」に対する態度は二分されることになる。一つは前述した学術的態度、即ち「神話」の根拠を探り、事実を追究する態度。学者に限らず一般人にもこういう傾向の人も大勢いるだろう。この時「神話」は「歴史」となる。一方、「神話」の意味するところを信じようとする態度、即ち「神話」を真実として捉える態度である。この時「神話」は「詩」となる。
 具体的に言うと、例えば「海が割れる話」なら、事実かどうかで考えればそんなバカなことが起こる筈がなく、実際は船による海路、あるいは何か橋のようなものを架けたのではないかとか色々と考察探究することである。片や真実として見れば、そこに神の力を感得する。「事実」よりも「その意味するもの」を見る態度である。
 言うまでもなく私は後者の立場をとる。ただしこれは特定の宗教を信じようという意味では決してない。宗教心、というよりも信じる心、この世の道理を重視したいのである。端的に言えば「神話」を「信話」もしくは「真話」として解釈するものである。
 ちなみに、この問題はこれまでにも何度も触れてきたけれども、事実を追究することと、いわゆる科学的態度とはイコールではない。現代人が思い込んでいる科学的態度というのは余計なことはすべて、関係性まで排除して接する姿勢を良しとするものである。例えば論文などに「マウスのちょこちょこしたかわいい動きをじっと見ていると」などと書けば、非科学的だと削除されてしまうであろう。しかしながら実はこのマウスと観察者の関係によって実験が進められた限りは、そこに生じる微妙な紐帯も決して無視できないものである筈だ。
 少々脱線してしまった。本題をまとめると、私としては「神話」は「信話」「真話」として楽しみ、また教訓としたい。


「神話」とは、アイデンティティとナショナリズムのためのものである

 前川幸士(京都市伏見区)

 

 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」は、フランスの画家ポール・ゴーギャンの最も有名な絵画のひとつであるが、この命題は、人類に共通する疑問であり、哲学的解答のない問題でもある。
 我々はどこにいるのか、どこから生まれたのか、死んだらどうなるのか、我々の世界はどのように形成されているのか、そこに明確な答えはなく、納得のいく説明もないが、それが判らないと怖いため、不自然な説明であっても、無理にでも説明を求める心理が存在する。そこに神話が発生し、伝搬していく要因がある。
 どこの国家、民族にも、国生み神話のようなものがあり、それがナショナリズムを支援し、それを構成する個々人のアイデンティティを保持している。もとより、世界の始まりを追求すれば、科学的に信頼し得る説明は困難であり、万人を納得させるようなストーリーを構築しようとすれば、どうしても無理が生じるため、荒唐無稽なエピソードを捏造せざるを得なくなる。こうして神話が生まれ、信仰が出来る。如何なる国粋主義者とて、日本の記紀神話を史実として信じている者はいない筈で、寓話としての解釈に戦々恐々としているに過ぎないのである。
 しかし、世界が近代を迎えて以降に建国したアメリカ合衆国・USA(United States of America)には、インディアン(Indian)と呼ばれる先住民族のものを除いて、神話に相当するものは存在しない。しかしというか、だからというか、アメリカ合衆国には、空飛ぶ円盤、すなわち未確認飛行物体UFO(unidentified flying object)をめぐる一連の噂が流布されており、これがアメリカ合衆国としての神話に相当する存在であると考えられる。
 心理学者ユングの生前に刊行された最後の著作が、”Ein Moderner Mythus - von Dingen, die am Himmel gesehen werden ”(現代の神話―空中に見られる物体について/邦題『空飛ぶ円盤』筑摩書房刊)であり、この著作は、未確認飛行物体である空飛ぶ円盤を目撃したという集団心理現象を、象徴比較や夢解釈によって読み解き、近代合理主義によって切り捨てられた神話の心理を解明しようとしたものである。この著作は、日本の作家三島由紀夫にも影響を与えたと考えられており、実際に三島由紀夫は、空飛ぶ円盤を扱った小説もものしている。
 そして、21世紀の日本にも神話は存在していた、あるいは、現在も存在している。それは、原子力発電をめぐる一連の安全神話である。東日本大震災以降も、一応、原発神話は存在し続けている。原子力発電の安全性については、世界唯一の被爆国である日本のみならず、世界中で疑問視されており、それはこの発電システムが提唱された当初からのものである。地球温暖化対策として、二酸化炭素の排出量を抑える手段として、あたかもエコロジーであるかのように喧伝されてきた原子力発電であるが、放射能が漏れた時の環境汚染は、二酸化炭素のそれの比ではない。対数的に危険度が異なる。しかし、政治的な事情もあり、原子力発電を受け入れざるを得なくなった時、原発事故、メルトダウンや被曝の恐怖に対峙し、その不安をごまかすため、ナショナリズムにも似た集団心理によって生まれたのが、いわゆる原発神話である。
 本当に、原子力発電所が100%安全であり、放射能が漏れることがないのであれば、人体への悪影響がまったくないのであれば、送電効率を考えあわせて、原発を新宿につくればよい話である。それを都心から遠く離れた東北地方につくるのは、その安全性に不安があるからに他ならない。関西でも、梅田に原発をつくらずに遠く北陸地方につくっている。もっとも、新宿や梅田に原発をつくったのであれば、海水による冷却ができないということもある。では、東京湾岸や大阪湾岸につくることも検討できる筈とも考えられる。
 神話とは、不可知の事象に対する不安と恐怖を合理化するためのものであり、同時に、アイデンティティやナショナリズムを形成させるためのものであると考えることができる。


神話とは王政国家の成立に大きな役割を果たした王権神聖化の民族宗教である

 山下公生(東京都目黒区)


 覇権争いの栄枯盛衰の日本の歴史で、天皇が超然と最上の権威ある存在として現在に至っているのは、天皇は日本を創造した神の末裔であるという日本神話で神聖化された故だと言える。これは中世の西欧諸国の王侯貴族と教皇との関係に似ている。つまり、地を統治する権力者が天の神に仕える教皇に認可を受け権威を拝借して民衆を心服させ、覇権の安定を得る代償として、権力で政治的援助をする関係である。国王が教皇より受ける戴冠式や、日本の武家が天皇より授与される征夷大将軍の称号がこれらの関係を象徴するものである。
 日本神話の始まりは、天地開闢である。天地が初めて出来た時に生まれた神は、初代の天之御中主神(アメノミナカヌシ)、それに続く二代の天の生成の高御産巣日神(タカミムスビ)、三代の地の生成の産巣日神(カムスビ)までが造化三神である。四代の生命力を神格化した宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジ)、五代の天(高天原)の恒久を象徴する天之常立神(アメノトコタチ)。この五代までの神々を総称して別天神(ことあまづかみ)という。
 別天津神の次に現れた十二柱七代の神は神世七代とされている。独神は1柱で一代、男女双神は2柱で一代と数えて七代となる。一代、国之常立神。二代、豊雲野神。三代、宇比地邇神・須比智邇神。四代、角杙神・活杙神。五代、意富斗能地神・大斗乃弁神。六代、淤母陀琉神・阿夜訶志古泥神。そして、七代の男神の伊邪那岐神(イザナギ)と女神の伊邪那美神(イザナミ)の双神が日本の創造主である。
 伊邪那岐神と伊邪那美神の神生みで、はじめに1柱の神が生まれ、それから住居に関わる6柱の神、水に関わる3柱の神、台地に関わる4柱の神、生産に関わる3柱が生まれた。伊邪那美神は、火の神カグツチ(迦具土神)を産んだ時に陰部に火傷を負って亡くなった。その臨終の時、伊邪那美神の嘔吐物より2柱の神が生まれ、大便より2柱の神が生まれ、小便より2柱の神が生まれた。伊邪那岐神は死者の国とされる「黄泉国」まで伊邪那美神を追いかけ穢れた。この世に戻った伊邪那岐神の穢れの禊ぎにより26の神々が生れたが、次世代の継承へ関わるのが、三貴子と呼ばれる右目より生れた月を神格化したツクヨミ、鼻より生れた嵐を神格化したスサノオ、そして左目より生まれたのが、日本の最高神で天上世界の『高天原』の統治者であり、日本人の総氏神である太陽を神格化した女神、天照大御神 (あまてらすおおみかみ)である。
 この天照大御神、二代目の邇邇芸命(ににぎのみこと)が天孫降臨し、天の高天原から地の高千穂へ降臨して地を治めることとなる。その後、五代目が現人神(あらひとがみ)の初代天皇として、神武天皇となるのである。ここで、天皇は日本創造の神の末裔であるという日本神話が完結し、天皇は日本国家の始祖として、最高の権威が確立されて現在に至っている。事実無根の日本神話に依らない天皇とは、歴史を通じて日本文化の粋が集約された伝統文化の本流である。現代の国民主権の日本では、天皇への時代錯誤の「現人神」崇拝を脱却し敬愛へと移行すべきである。
 王政国家が成立するためには、王の権力と権威の双方の確立が必要不可決である。世界の神話も日本神話と同様に力で民衆を制圧した王は、神話伝承により神聖化され権威を確立し民衆を心服させた。神話は王政国家成立に大きな役割を担ってきた。神話の共通の特徴としては、森羅万象や太陽を中心とする星々を神格化して崇め、王はそれら神々の末裔か、神に王権を授かった選ばれし人であるという王の神聖化を確立し、民衆を心から服従させる土台となった。つまり神話とは王政国家の成立に大きな役割を果たした王権神聖化の民族宗教である。現代では王政国家は殆ど消滅し、神話の国家的意味はなくなったが、貴重な芸術遺産である。


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