
〈奇数月第1月曜日更新(祝日の場合は翌営業日更新)〉
うらなり小作(千葉県柏市)
私は、世界中のすべての人たちと関係しているのだろうか? その存在を知っているだけで、私は彼らと関係していると云えるのだろうか? 関係に、程度や深みはあるのだろうか?
世の中には、泥棒されてすべてを奪われる関係もあれば、無償の労力や金品を奉仕する関係もある。前者は無思慮のなせる業であり、後者は関係性を考えた上での行為である。
そもそも関係というものは、客観的すなわち知的に眺められる性質のもので、もしそこに感情が入ると、人間のサガが顔を出して嫉妬やエゴがまかり通り、独占欲は謳歌されて、合理性は失なわれてしまう。戦争におけるだまし合いや憎しみ合いでは、ひととひととの関係は、人間関係などという生やさしいものではなくなってしまう。
でも、ものごとの関係が知性だけで処理されたなら、そこには発展性がなく冷たい状態に置かれるだけだ。もちろん記号や厳密な言葉で研究される科学では、きわめて純粋な、客観的な関係性が要求される、そういう分野もある。自然の世界では、あらゆる働きがよい関係にあるが、それは神の知性が働いているから・・、と考えられる。
ところが人間世界では、上下の関係、社会的なしがらみの関係などが生じて、ときには男女の関係や政治的な対立で何がなんだかわからなくなる関係もある。嫉妬、エゴ、独占欲などの感情が災いするのだろう。
それなら良い関係を作るためには、感情はない方がいいのだろうか? でも恋愛の初期状態においては、痘痕と笑窪の関係さえわからなくなる。相手を想う感情の方が、知的な働きよりずっと強くなっているのだ。この感情なくして、相手を恋人の関係におくことは不可能だ。人類は子孫を残すには、やはり知的な関係だけではダメなのだ。
最初に挙げた「世界中のすべての人たちと関係しているのだろうか?」だが、自分にとって遠くの出来事には関心がないのがふつうだ。でももし遠くに困っている人がいたら、少しは心が動くかもしれない。そのようなとき、自分の方から彼らに関心を持つことで、関係は結ばれる。
科学的なことなら感情が入らない方がよいが、人間的な事柄だと、ものごとの知的、客観的な理解を得るためにも、一応の関心をもたせる感情的な下支えが必要なのだ。自発的な働きを知性に促す、それほどの権威を持った精神の働きは愛にほかならないが、はじめはヘナヘナの恋愛でも、その任を十分にはたす。
恋人同士が真実の価値ある関係を保つには時間をかけなければならないし、その間、良い感情によってよい関係を下支えしていかなければならない。そして愛情が深まっていけば、痘痕が痘痕に見えても、その関係は変わらない。関係を最もよく理解する知性は、ときには感情を嫌い、時には自分が主催する関係性を支えてくれる感情に感謝しているにちがいない。思いやる感情が深いほどに、問題の関係性を解く知性に奉仕するのだとすれば、関係とは、感情の発達によって、より深く理解されるものではないか。
風谷大青(岩手県岩手郡)
関係とは、二つ以上のものごとが互いに関わり合うことや人と人との間柄のことであるという。この世は、関係の束である。貴女だって、会社では社員、遊び仲間といる時は友人、親にとっては子、子供たちにとっては母親でしょう? それらの様々な関係性の中では、ある一定の役割が期待されている。会社では、利益を齎すことが期待され、子供たちにとっては、ご飯を作ることや話を聞いてくれることなどが期待されているであろう。
国際関係は、現在、韓系に流れている。少し前までは、日本製の家電や車が人気であったが、世界各国で、今、韓国製品が人気であるという。国の政策として、音楽グループなどを輸出し、それを起爆剤として、現在の隆盛があるという。
関係性は日々、変化している。貴女だって、新婚当時は、ダーリンが恋しくて仕方なかったでしょう? それが、現在では、髪の毛や生活費がターリン! と文句を言っているのではないですか。魅力が減って、増えたのはお腹の肉だけではないのですか?
ドラマや書物によると戦国武将同士は、姦計の関係にあったことが窺える。もっとも、現代でも、騙されたという話は毎日のように耳にする。姦計の関係は、いつの世にも多いのかもしれない。貴女だって、寄せて上げたり、猫をかぶったりしているでしょう?
この世に、独立自存しているもの──つまり、実体というものはあるのか? 何ものも関係性の中にあり、「かれある故、これあり。これなければ、かれなし」というのが、仏教の説く縁起の思想なのではないか? もし、この世に存在するのが、貴方一人で、他に何も存在しなかったとしたらどうであろう? 貴方は、自分自身を神だと思うこともあろうが、他のものが存在しない世界では、自分が本当に存在しているのか定かではなくなるのではないか? 周りに様々なものが存在するからこそ、自分のいる位置もわかり、他者が貴方と様々に接してくれるからこそ、自分というものが確かに存在するのだ、と確信できるのではないだろうか。
「自分が死んでしまえば、何もこの世とは関係がなくなる」と、貴方は考えているかもしれない。霊魂というものが存在するかどうかは確信は持てないが、仮に貴方が死んだとして、もし、荼毘に付されても、貴方の肉体を構成していた物質は、姿を変えて存在し続ける。貴方の一部だった、それぞれの物質は様々に姿を変え、生命体や物体の一部となるかもしれない。貴方という人間が誕生するとき、肉体を構成していた物質は様々に姿を変え、貴方の肉体の一部となった。いうなれば、物質のレベルで言えば、貴方は、この世界が存在したときから存在し、この世界が存在し続ける限り、存在し続ける。貴方はこの世界と悠久の昔から関係し、悠久の未来まで関係し続ける。
関係は関係を生む。貴方が存在するのは、父母が関係したからであり、貴方が生まれたことにより、親子関係が生じた。兄や妹がいれば、それは兄弟関係であり、ペットがいれば、それもまた家族関係であろう。どんなに親しい人でも、その人と自分は関係がないと思えば、関係がないのだし、会ったことがない人でも自分に関係のある人だと思えば、関係があるのだ。
ヒュームは、因果関係とは、我々の心理的な習慣である、と言ったが、それは中南米の古代の書物にも書かれてある。確か、インカ関係の書物である。──
関係とは、我々の心が作りあげるものなのかもしれない。彼がああなのは、子どものころの生育環境のせいかもしれない、と多くの人は考えるかもしれないが、彼の性格が、幼いころの生育環境と関係があるのか、ないのか、確かなことは、誰にもわからぬであろう。ただ、多くの人がそう考えれば、そう認識される──それだけのことなのかもしれない。
妻は夫を疑った。「夫は浮気しているに違いない」確かに、夫にはつきあっている女性がいた。だが、それはプレゼントを贈り合うだけの関係だった。そう、二人はネクタイ関係だった……。
クール(岐阜県加茂郡)
関係とはガラスの壺のようなものだといつも思う。見た目はきれいで憧れるのだが、いざ持ってみると壊してしまうのではないかと慎重に扱う必要がある。また、ときに誤って壊してしまうこともある。そういう覚悟を持って築くのが関係なのだろうと思う。
関係といえば様々な関係を思いつく。私などは夫婦関係を真っ先に思い浮かべる。これなどはまさにガラスの壺であり、下手をすれば壊してしまって離婚に至るというケースもある。互いに「関係=ガラスの壺」という認識がないと、結果的にそうなってしまうのではないかと思う。
もっとも、最初から「関係=ガラスの壺」と知りつつ結婚する人はいないだろう。たいていは知らないまま結婚して、後で気が付くのである。私もその口で、結婚して初めて夫婦関係とはもろいものであると知った。ようは、夫婦になったからといって互いに心許せるものではなく、幾つになっても他人の関係なのだという認識が大事だと言うことなのかもしれない。
我が夫婦も関係が崩壊する危機に何度も直面してきた。そのたびに乗り越えてきたというより、互いに距離を保ってきたという方が正しい。他人である以上意見が衝突するのは当然であり、喧嘩もするし、ときにバトルにも発展する。そのたびに私たちは互いに距離を測って、その距離を保ってきた。
具体的に言えば、相手に対して「ここまで言うのはまずいだろう」という距離があり、それを互いに喧嘩を通して分かり合ってきたわけである。夫婦に関して言えば、「関係=ガラスの壺」というのは事実であり、もっとも壊してはまずいものがこれでもある。
しかも、夫婦の関係は時間の経過によって、出来事によって変化していく。一番は子どもが誕生した後の関係である。私も子どもが誕生してから妻を女性と見るのではなく、母親として見るようになってきた。妻もまた同じで、「あなた」という呼び方が「パパ」と変わった。夫婦の関係が第二ステップに上がるとこうなっていく。恋愛の関係から子どもを育てる夫婦の関係に、とでも言うべきだろうか。子どもの誕生によって互いへの愛情に変化が芽生え、結果関係もまた少しずつ変化していくのである。
夫婦の関係でさえこうなのだから、友だち関係、職場での人間関係などはもっと複雑である。友だちや職場の同僚、上司などは一転して敵に回ったりするから厄介だ。旧知の仲だと思って安心していたら、私の発した言葉によって相手を傷つけ、関係が破綻してしまうという経験が過去にもあった。その逆に、相手の発した言葉がどうしても許せず、私の方から関係を消滅させたというのもある。夫婦だったらこの場合、愛情があるから修復する可能性もあるだろうが、友だちや同僚、上司の場合はそれがないから修復は難しいのが実情である。これもまた「関係=ガラスの壺」
という考え方の正しさを証明している気がする。
「関係=ガラスの壺」という方程式を認識しているか否かは大きな問題である。知っていれば相手に対して図々しい対応はできないはずだが、知らない人はきっと図々しく、厚かましく接しようとするだろう。そういう場合はいったん関係を解消すれば、相手に方程式を教えるチャンスになるはずである。この方程式を教えないと、社会で生活するのは困難だろうし、結婚して夫婦となってもの紺の危機を迎えてしまうに違いないのだから。
では、自分も自分の妻もそれを十分に知っているだろうかと言われたら自信はない。妻も私もたしかに互いの距離を測って保っているのだが、ときに甘えや慣れが生じたりしてぶつかり合うことを繰り返しているからである。そう考えると、「関係=ガラスの壺」という方程式はあくまで理想の方程式なのかもしれない。
鈴木康央(奈良県奈良市)
「・・・の関係」という言葉をくっつけると、すべてそれで成り立ってしまう。「夫婦関係」「友人関係」などと同等に「他人の関係」とも言えるわけだし、「親密な関係」「敵対関係」などと同等に「無関係」とも言えるわけである。
また昔受験勉強で覚えた「ABの関係はCDの関係に等しい」という英語構文のように、ひとつの関係あるユニットを他のユニットと関連づけてどんどん拡げていくことも可能である。しかしこういったことは単なる言葉遊びに堕する危険性があるので、今はもっと現実的な場面をいくつか考えてみたい。
まず、出会いは偶然なのか必然なのかということ。後に親しい関係となる二人のそのきっかけとなった出会いは、たまたまその場所に出くわしたという偶然なのであろうか。必然論者ならこう答えるであろう。そもそもその場所に二人が出向いたことに共通する関心があったからだ。全く興味のない人間がその場所に向かうことはなかろう。ではそこで会った二人が声をかけあったのはなぜか。それは互いの容姿に幾分なりとも好意を感じたからで、容認できなければ話し合う筈はない。つまり二人が親しくなったのは成るべくして成った結果である、と。それとも結局はただの偶然の積み重ねなのだろうか? 要はいずれの考えに立つかで、その後の二人の関係進展が多少なりともちがってくることは確かであろうということ。
次は「個人」と「他人」の問題。端的に言って、親兄弟も「他人」なのかということ。これを「身内」とするならば、どこまでが「身内」なのか。この問題はその状況によって縮小拡大が非常に恣意的である。即ち「仲間」という言葉を冠することで、時には一族全体が、時には所属する団体全員が、時には町全体、さらには国全体がひとつの「身内」になることもある。はたしてそれが良きことなのかどうかは、ここでは問題としないでおくけれども。逆に「個人」以外は全て「他人」という考え方も十分ありうるわけである。
また、こんな場合もある。不和の夫婦が心理カウンセリングにやってくる。妻の言い分「主人はお酒ばかり呑んでいるんです。それで私が注意すると、それが気に入らないのかまた呑みだすんです。人がせっかく心配して言ってるのに」 夫の言い分「女房は俺に小言ばかり言う。それがうっとうしくて酒を呑む。するとまたゴタゴタ言ってくる。もううるさくてかなわない」 これを図式化するとどちらがAでどちらがBでもいいのだが、「飲酒」と「小言」がABABAB・・・と続き、妻は「ABA 」をひとつの単位に考え、夫は「BAB」をひとつの単位ととらえて、互いに自分の枠組みでしか見てなくて批難しあっていることがわかる。原因と結果が区切り方で入れ替わるのである。
さてこうしてみると、「関係」とは何かを定義することは大変困難なことであり、逐条的に考えていくしかないように思える。つまりは各々のケースがいかなる枠組みを設定しているか次第であるということがわかる。
その枠組みが二者あるいは三者以上の間で共通していればお互い理解しやすいのだが、実際はそこに結構ズレがあることが多いところに色々問題が生じるのではなかろうか。
浜田節子(神奈川県横須賀市)
「関係」は有るとか無いで言い表すことが多い。端的に言えば「AとBの関わり」ということで、その関係自体は質量を持たない仮定という抽象的な媒体である。
関係は具体的に見える場合もあるけれど、それをも含めて、認識の範疇に括られるべき言葉ではないか。 存在するものは総て関係性によってそこに在るという事実。ビックバンの始まりから今日に至るまで、例外なく存在するものは連鎖する関係の中で誕生していると断言しても構わない。ある単体から物が派生し、属や種という関係に分類されていく。たとえば、人類の原初、最初のお母さんはアフリカからと言われているし、数人が原初であるという説もある。
それら総ては、DNAの関係性を遡った結果に見えてきた始まりである。
存在はその関係性を抜きにしては語れない、説明不可なのである。換言すれば、関係は存在にとって、その存在を証明しうる必須のアイテムにほかならない。
関係は縦横無尽に作用する。同時代という横の関係、歴代という縦の関係、二次元、三次元、次元を超えてあらゆる存在を講釈するに必要不可欠な媒体である。
わたし達は、つまり、関係性の中で生き、関係性の中で暮らしている。
関係が有るという関係、関係が無いという関係・・・総てはつながっている。地球の中の同じ水が何億年もの命を支え、これからも支え続けるように、関係は未来永劫その糸を拡大、拡散し続けていく。重さある素粒子は、関係の未来である今日の未来を予想しえたであろうか。学者たちはその関係性を遡って真の原初を探している。
関係は学術的なデーターの集積によっても明確にされていくけれど、砂や星の数ほどもある抽象的な存在の影である。
前川幸士(京都府京都市)
関係とは、一般には二つ以上の対象・個体の間に成立する結びつきや関わりのあり方を指す言葉である。人間と人間の場合、関係はコミュニケーションによって形成される。最近、若い世代を中心として、このコミュニケーション能力の低下が問題となっている。中には障害にカテゴライズされるものもあるが、その多くは社会のあり方に起因するものではないだろうか。つまり、コミュニケーションが取り難い社会になってきたのである。
現在の日本社会には、コミュニケーション偏重主義の風潮が顕著である。コミュニケーション偏重主義とは、コミュニケーションスキルのみで他人を評価するものであり、小中学から始まり、高校、大学と進むに連れてエスカレートする傾向にある。かつての子ども社会には、多様な評価軸があった。勉強ができる、スポースが得意、絵が上手ということ等で評価された。コミュニケーションが上手くなくても、何かで一目を置かれるという存在のあり方が許されたのである。しかし、現在は評価軸が貧しくなり、コミュニカティブであるか、どうかが唯一の評価軸となってしまったのである。
さらに、このコミュニカティブという評価軸も歪なもので、空気が読めるか、笑いが取れるか、他人がいじれるかといったお笑い系コミュニケーションスキルがコミュニカティブの基準となっている。要するに、テレビでもてはやされているような芸人風のコミュニケーションスキル、エンターテイメントである。ここでは、リベート能力や論理的な能力は相手にされない。理屈よりも空気という基準である。
子どもたちは、大人社会の鏡であり縮図である。大人がそういった歪なコミュニケーションスキルを偏重してきた結果として、子どもがその傾向をカリカチュアライズしている、戯画化しているのである。このようなコミュニケーション偏重主義が進行した原因のひとつは、お笑いブームにある。これが、空気の読み方、コミュニケーションスキルとしての教科書として機能してしまい、他人のいじり方、つっこみ方のお手本、他人をいじる時のお手本となったと考えられる。もうひとつは、コミュニケーションツールの発達である。ケイタイ・メールなど、かつて以上に、子ども社会における相互に結びつきが起き易い状況になり、流動化が進むようになったのである。流動化が進むと、全員に対して平均的にコミュニケーションの機会が増えるとは限らない。友人の多い者といない者という二極分化が起こり、平均化は起こらない。これによって、低く評価された者、あるいは自己評価を低めた者は、良好な人間関係を形成することができず引きこもりとなることも少なくない。
このような歪なコミュニケーション形態は、近代の始まりと共に現れたのである。夏目漱石の「草枕」の冒頭に、「山路を登りながら、こう考えた。/智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」とある。そして、その住みにくい世間的な人情を離脱した作品として、陶淵明の「採菊東籬下悠然見南山」と王維の「竹里館」を挙げ、「此乾坤の功徳は『不如帰』や『金色夜叉』の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼儀で疲れ果てた後、凡てを忘却してぐつすり寝込む様な功徳であると」としている。『不如帰』や『金色夜叉』とはエンターテイメント作品である。つまり「二十世紀に此出世間的の詩味は大切」と考え、これらの詩句を紹介し「淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したいからの願。一つの酔興だ」としている。二十一世紀の現代社会に人間関係は、ますますストレスを溜めるものとなっている。王維や陶淵明のように身体は世間にあっても心は隠逸にあることで、関係の息苦しさを逃れるのが唯一の術というところであろうか。
山下公生(東京都目黒区)
すべての存在は、他の存在に関係することにより、自らの存在の基盤を得ている。物質には、物質間に普遍的な力の関係が成立し、物質は空間に位置し、その空間は時間と一対の相互関係にその存在の意義を得ている。
地球上の生物は、食物連鎖とゆう命の交換システムの中で生命を維持しており、この食物連鎖システムもまた、造山運動とゆう地球規模の循環システムに連鎖する関係の中で機能している。そしてその地球もまた、宇宙に連なる普遍の法則の関係のなかで生成され、現在もその法則の中にある。そして現在、全宇宙のエネルギーと物質の総和量は不変であるとされており、広大無辺の宇宙は、エネルギーと物質との相互変換による変化変成を継続しているようである。
森羅万象に働く自然法則とゆう関係は我々人間には、関係の次元が異なりその影響を意識することが少ない。たとえば、人間にとって地球の空気や水や重力は必要不可欠な生存条件であり、自然法則の働く地球でこそ生存できるのだが、日々の生存を維持するための衣食住の獲得が目前に迫りくる。人間においては生きる上において別の関係の影響が大きい。それは人間同士の関係である。つまり友達や恋人や家族、そして社会や国家などの関係である。人間は、これらの関係の中で絆を築き子供を産み育て、物を生産し、消費して経済活動をとうして生活を維持する。さらには芸術、学問、思想等の文化が、精神的連動の中で生み出され、より高度に統合されて国家の骨格を形成してきた。そして国家は政治経済、さらに文化の受け皿としての大きな循環システムを構築する。国民は様々な循環システム経路の中に生活を組み込み、生を維持している。この国家が繁栄するためには、物質的な経済活動と、精神的な文化活動が両輪のように活性化することが望ましい状態だと言える。これら人間の関係において重要なのは、バランス感覚といえる共存共栄の道である。このバランスを欠いた状態が利己主義であり、その極限にあるものが犯罪だと言えよう。だが自然界の生物では、利己主義は生き残るための必要条件で、強い遺伝子を残すことが種の繁栄に繋がり、その種の繁栄が食物連鎖の中で、共存共栄の道へ連なっていると言える。この延長上の考えが、無神論の唯物史観や優生思想である。しかしながら、人間社会では、精神世界を組み込んだ弱肉強食ではない社会機構としての食物連鎖の構築が必要不可欠である。要するに弱き者と強き者が支え合う共存共栄の国家である。この提唱者が有神論であるキリスト教の思想である。
社会における共存共栄の関係の道を模索する場合、人間至上主義の神抜きの思想を展開すると、いたる処にその歪が生ずる。たとえば、弱き者を強く正しい者が支える社会とゆう一見美しく装飾された思想の中に賤しい者と高貴な者を差別した過去の封建主義、あるいは、一部のエリートが大多数の大衆を平等の名のもとに管理する形を変えた封建主義ともいえる共産主義の発芽が垣間見える。無神論における人間の平等、尊重の思想基盤は、脆弱で曖昧であるが、キリスト教は、神の前に人間は皆平等であると明確に宣言する。つまり弱き者と強き者との関係は同等であり、両者には、各々の方法による社会と神への奉仕の仕方があると考える。また地球、宇宙、さらに人間すら、神の創造によるものとするキリスト教は、地球とその生態系を、人間の利己主義により破壊することに警戒を促し、共存共栄すべきことを提言している。
人間の存在形態は、宇宙に連なる法則から地球の生態系、さらに、社会的機構に至るまで様々な関係に関与しているが、それらの関係とは、すべての存在を束ねる見えない意図の表れであり、その束ねる方で在られる神を悟ることこそ存在認識の根底と言える。
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