哲学カフェ

 

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第62回

悟りとは何か
 

(五十音順に配列させて頂きました/編集部)




真理を把握することだが・・・

 鈴木康央(奈良県奈良市)


 「悟り」とはつまるところ「真理を把握すること」であろう。しかし、過去に一体どれだけの人間が「悟った」であろうか? 数十人、数人・・・いや、ひょっとしたら一人もいないかもしれない。まず「私は悟った」などと言う御仁は信用できまい。
 そもそも、もし人が「悟り」を願望するなら、それは何のためだろう。たとえ悟ったところで、目にゴミが入れば痛みを感じるだろうし、中傷されれば気分を悪くするだろう。真理を掴んだところで日常生活にどんな変化が生じるというのか。畢竟、人は真理という唯一絶対の存在をあたかも大きな楽園のように思い込み、悟ればその楽園の中で泰然自若に暮らせるという夢を描いているだけではないのか。つまりはユートピア幻想なのでは。本当に悟った者のみがその境地を知る。
 ともあれ悟るための方法、即ち真理に近づく方法は二つだと思う。一つは、広義の科学的方法。論理的思考に基づいて一つずつ階段を登って行って、天高くに鎮座する真理に達しようというもの。現代の教育システムもこれを踏襲している。もちろん進度に個人差はあろうが、その手順に従えば確実に誰もがその学力(この言葉を定義づけるのはとても厄介だから、今回はごく一般的な意味として使う)を向上させられる。しかし、この方法に飛躍はない。一歩一歩登って行くしかない。はたしてそうやって生涯に天まで登り切った人間なんているのだろうか。
 答えはNOだろう。ソクラテスもニュートンもアインシュタインも「悟り」にまでは至っていない、と私は思う。論理的思考は着実に向上するが、終着点がないのである。ただ、これは極端な私見なのだが、その中でいささか逸脱した人間、もっと言うなら多少狂った人間、具体的には芸術家の中に、もしかしたら実在したかもしれない・・・? そういう人間は、次の第2の方法に近い体験をした人かもしれない。
 その第2の方法とは、禅の常住坐臥の修行である。日々の苦行、日常作務、公案との葛藤を通して、何年か後のある日突然、正しく晴天に突如雷に打たれるが如く悟ってしまう、かもしれない。先の論理的思考による方法とは対極の方法である。たとえ何年坐り続けても悟れない者は悟らない。0のままで何の向上もない。しかし極々まれに、運よく雷に打たれた人がいたかもしれない。私としては、少なくともお釈迦様はその一人だと思っている。
 けれども仮に「悟った」大僧正でも、その悟りを人に教授し、伝えることはできない。だから弟子たちに譬え話で説いたり、日常生活の一つ一つの挙動で示したりするしかないのである。それでも受け取る側が凡庸であったら、そういう師のせっかくの示唆も馬耳東風、意味をなさない。結局は自分の力で修得するしかない。つまり禅の悟りとは、まったく個人的な体験ということになる。
 さてこう考えると、もし本気で悟りたいと思っている人がいたら、禅寺へ向かうべきだろう。ただしその成功確率は宝くじ一等に当たるよりはるかに低いことを覚悟して行くこと。まあ失敗したところで、「忘我」を瞬間的にせよ味わうこともあろうし、それを「悟り」と思い込む能天気さも実生活ではプラスとなるかもしれない。
 それとも「悟りなんて本当にあるの?」とうそぶいて、論理的思考範囲内で日常生活を満喫し、他人との関係をうまく保ちながら無難な人生を送るか、であろう。


悟りとは無への羨望である

 浜田節子(神奈川県横須賀市)


 わたしは通常「悟り」とは無縁であり、悟りを考えながら過ごす日常はない。断言できる程にわたしの日々は業の絡んだ薄汚れた時間の集積にちがいない。
 それでも僅かながら「悟り」について考えを巡らせるならば、極論として、悟りは無に直結してしまう。何もかも棄ててしまえばそこに新しい見解としての悟りに近づけるのではないかという淡い展望。
 笑止、「そんな生易しいものではない」と叱責を頂戴するような軽い発言をすること自体が悟りに遠い距離にある。

 正義、悟りが邪悪であるはずがない。真の正義を貫く、どこまでも正義の天秤で測り均衡のとれた歪みのない精神を保つ。そのように努力するが、悟りとはその壁を突き抜けた世界である。真であり、善であり、美へ昇華できる領域を見定める眼力と精神の強さが必須となる。

 不変、悟りに迷いがあるはずがない。永久不変の捨て身、自分を捨ててこその世界への祈りの潔癖さである。

 比較のない平等・・・虫けらでさえも尊いとする命への尊厳。蟻をも踏まない殺さない、蚊は叩かないのだろうか・・・。食物連鎖、弱肉強食は通用しないのだろうか。

 考えていくと、どうしても矛盾に突き当たる。悟りの壁は厚すぎて決して近づけない。
「悟り」の周りを逡巡することは可能でも、悟りの確信へは踏み込めない。遠すぎて直視することは出来ないが、悟りの世界があるとすれば、《無》で括る、あるいは遮蔽された見ることの叶わない核心である。

 ではなぜ「悟り」という指標を掲げるかと問えば、生きて在るものの強く尊い希望によって、神の領域である神聖さを祀らずにはいられないからであり、近づくことを最大の目標とすることが、日常を浄化するからである。
 以上が凡人の「悟り」に対する感想である。 


「悟り」とは物事の本質をあきらかにすることである

 前川幸士(京都府京都市)


 プログレッシブ・ロックのバンドKing Crimsonに“Sartori In Tangier”という楽曲がある。1982年のアルバム『Beat』に収録されている。インスト曲で歌詞がないため、Sartoriの語が何を意味しているのか不明であるが、King Crimsonには、"Matte Kudasai" という日本語のフレーズを題名に持ち、歌詞にも使用されている曲があることから、このSartoriは日本語の「悟り」であることが推測される。また、これは別のアーティストに“Satori in Paris”という曲があることからも日本語の悟りであることは間違いない。
 おそらく、このSartoriの語は、Zenと共に、西洋をはじめとして世界に最も知られた日本語であり、佛教用語ではないかと推測される。また、Tangierは中東の都市の名称である。確かにそれらしい曲の雰囲気ではあるが、あくまでも印象によって付けられた題名という感じである。
 このSartoriは、ワールドワイドに認知された言葉であり、佛教教義の中心的な位置にある術語であると考えられるが、それだけにその正確な意味については逆に知られていない感じがある。また、時には否定的なニュアンスで使用されることすらある。悟りきった様子といえば、達観してしまって積極性や主体性に欠ける様子を表現することがある。
 かつて、「悟り世代」という言葉があった。堅実で高望みをしない、夢や理想を追求せず希望を積極的に表現しない若者気質を表す言葉として、インターネットを中心に拡大し、2013年の新語・流行語大賞にノミネートされた。1980年代の後半以降に生まれ、ゆとり教育を受けたとされる「ゆとり世代」と重なる。世の中のすべてのことを、あきらめきったような言動を特徴とするらしいが、それであれば、それ以前の「しらけ世代」にも共通する特徴があり、時代というよりも若者に特徴的な気質に過ぎないとも考えられる。大人たちが幅を効かせ過ぎると、若者たちはそのような傾向を帯びてくるのかも知れない。
 しかし、悟ることは、しらけて無気力になること、脱力感に陥ることではない。ただし、あきらめることではある。あきらめること、あるいは諦観することは、見込みがないので止めること、物事の遂行を断念することではない。それは、本質を明らかに見て取ることであり、佛教用語としては、悟りの境地にあって物事をみることを意味する。つまり、本質をはっきりと見極めること、事態を察して諦めることをいう。つまり、佛教では悟りと、諦め、諦観、諦念はほぼ同じ内容を意味する術語になる。佛教の術語としての真理あるいは真実をサンスクリットで「satya」といい、それを見極めたもの、つまり絶対の真理、見極められた道理が「真諦」である。
 一方、佛教の術語としての悟りは、サンスクリットで「bodhi」といい、迷妄を払い去って生死を超えた永遠の真理を会得することを意味する。つまり、真諦を会得することが悟りであり、物事の本質を究極的にあきらめること、あきらかにすることである。あるいは、あきらめた状態、あきらかにされた状態を指して悟りの状態、悟りの境地というが、この場合は「涅槃」あるいは「解脱」と同義ということになる。
 Sartoriの語が、西洋世界に受容され、人口に膾炙しているのは、その語感とともに、あきためきった気持ちの状態、すべてがあきらかにされた状態、そのような境地に憧れて、それを求めている人々が多数存在したためである。かつて、1960年代のカリフォルニアには、カウンターカルチャーとして佛教を受入れ、精神的安息を得ようとした若者たちがいたという。彼らは“Zen spirits”を体得することによって、ある種の精神的な高み、つまりSatoriを目指していたのである。アメリカ合衆国の実業家で、IT企業アップル社の最高経営責任者を務めていたスティーブ・ジョブズも、そのような若者のひとりであったという。そう言えば、彼が世に送り出した商品は、どれも物事の本質をあきらめたシンプルなデザインで、ZenやSartoriをイメージさせられるものが多い。


悟りとは神の御旨のままに生きることである

 山下公生(東京都目黒区)


 仏教の如来とは、その究極目標である悟りの境地に達した者のことである。しかし、悟りは一様には定義できない。何故なら仏教伝来の終着地日本では、伝達経過における教理の細分化に伴い、宗派により要旨が異なり、各宗派の理想とする悟りの境地が一致しないからである。そこで、各宗派の悟りの境地を如実に顕わしている御本尊の如来を拝することにより、その悟りの境地が浮き彫りにされる。それは神を求めて狂気妄想のカルト宗教に溺れることなく、実際に教会のミサや礼拝に参加することにより、ある日突然、眼から鱗が落ちて、鮮明な光が見える神秘体験をするようなものである。
 以上の論旨に基づき、日本の仏教が目指す悟りの境地を、各宗派の御本尊を軸として、悟りを多角的に究明する。飛鳥・奈良仏教の華厳宗の御本尊は毘盧遮那仏で、世の真理を照らす法身仏であり、毘盧遮那仏と一心同体となることが悟りである。この仏は平安時代の真言宗の御本尊である大日如来と同一性がある。真言宗の悟りとは、智慧の統治を意味する金剛界曼荼羅、慈悲の現実への育成を意味する胎蔵界曼荼羅の両界曼荼羅が如実に顕わしており、その両界曼荼羅の仏たちを司る大日如来と一如になり、即身成仏となることが悟りの境地とされている。法相宗の御本尊は、東方の瑠璃光浄土の主である薬師如来である。国家宗教的伝統のある天台宗では、東の国の帝である天皇と同一視し、薬師如来が重要視されている。そこに天台宗の悟りに、儒教的な要素が含蓄している様子がうかがえる。しかし天台宗の御本尊といえばやはり、中心経典である「法華経」において久遠の法の化身とされる釈迦如来であり、それに帰依し勤行する。天台宗と同じく、「法華経」を中心経典とする日蓮宗の御本尊は、久遠実成本師釈迦牟尼佛である。それは「法華経」で述べられる、過去と現在、そして未来に存在する永遠の仏である。日蓮正宗は、日蓮聖人が「法華経」の末法の本仏とされており御本尊といえる。禅宗の曹洞宗、臨済宗は仏教の開祖である釈迦如来が御本尊であり、六道輪廻の流転の輪廻転生から解脱し、涅槃を得た釈迦如来が悟りの境地とされる。座禅・公案により煩悩を断ち切り、経典「般若心経」の空を会得して、日々是好日とし、法に遍証されることを悟りとする。自力本願の題目「南無妙法蓮華経」に対して、他力本願の念仏「南無阿弥陀仏」の浄土宗、浄土真宗の場合、御本尊は西方の極楽浄土の導主、阿弥陀如来である。人間の不安と恐怖の的である死後の世界で、極楽浄土へ導いてくれる阿弥陀如来に全てを委ねて安心立命に在ることが悟りの境地だとされる。以上が各宗派の御本尊を象徴とした悟りの実態である。それはミサにおいてホスチアとカリスを媒体として神が啓示されるが如きである。
 仏とは人間が精進して悟りの境地に到達した如来のことだが、神とは人間の延長線上の超人ではない。日本では唯一なる神の存在意識が希薄である。日本の神社の神とは、特定の信条や地域の守護霊のことである。神とは全ての創造主であり、人間は被造物であり、すべての霊も、仏も又然りである。また神は、何処の国籍にも属さず、特定の民族や思想の守護者ではなく、愛と真理と正義に味方する普遍の存在であり、時空の始めと終りである。仏陀は仏だが神ではなく、キリストは神だが仏ではない。仏は頂上へ辿り着いた如来だが、神は頂上のさらに上の天上の存在である。釈迦は悟り如来と成ったが、御子キリストは、天上の父なる神のもとより、救いのため遣わされて地上に降誕した。その信者の悟りとは、回心して常に神と共に在り、神のカリスマを賜り、感謝と賛美を捧げて、平地で万人と同じ目線で地平線と水平線を見つめ、天上から燦々と降り注ぐ神の光を浴びて生きる信仰のことである。つまり、悟りとは神の御旨のままに生きることである。


真実に向かって舵を切れ

 米田向志(東京都新宿区)


 自分は何者なのか。それを知るために、街に繰り出した。人間が創り出した人間の世界で、他人とぶつかり、共鳴することで、自分の存在理由を確立しようとした。街に足を踏み入れた本来の目的は、そこにあったはずだ。 
 街を訪れた人間は、街での暮らし方を覚えた。他人との関係を維持することに重点を置くようになった。日々、他人と触れ合い、互いの様々な事情を共有することが、人間世界でのルールであると信じ込んだ。長い間、そうしたルールを守り続けてきた。果たして彼は、自分が何者であるか、発見できただろうか。街を行く人間の顔を見てみよう。平日の朝、彼らは浮かない顔をして歩いている。眉間に皺を寄せ、うっとうしそうに首を回している。吊り革を持ちながら、宙を見つめて固まっている。まるで生きながら死んでいるようだ。休日になると一息ついて、あとはカーテンを閉め切った部屋で、長い眠りにつく。どうやら、自ら追究すると決めてきたテーマを、思い返す余裕もないらしい。  
 そびえ立つ高層ビルを見上げる。辺りを埋め尽くす四角い窓ガラスのなかを、小さくなった人間がうごめいている。歩道は建物の周囲に網目状に張り巡らされ、数え切れないほど大勢の人間が、追われるように、交差点を急ぎ足で渡っている。角ばった窮屈な世界に身体を押し込めることを、日々繰り返している。そうすることがあまりに苦しくなった時には、他人にその苦しみを打ち明ける。街には、同じく窮屈さを味わい続けた結果、疲れきって従順に生きることを選択した他人が大勢存在する。人間世界で飼い慣らされた彼らは、愛想笑いをしながら、もっともらしいアドバイスをくれる。それは粘っこくまとわりつく。聞き入れた人間は、自分の信念の支柱部分が溶かされていくような錯覚に陥る。いい加減、分かってきたはずだ。街は人間を狂わせる。あまりに多くの対象が、目の前わずか数十センチ先で、ひしめき合い、騒ぎ立てている。街という人間が創り出した幻想世界では、いつも誰かが他人の言葉で話している。その言葉が自らの真実であるかどうかなど気にも留めないで、精確な機械のように、日々、他人の観念を自分の頭に植え付けている。
 日常生活のなかのある瞬間に、作業の手を止めて、窓の外を見つめることがあるだろう。その時、心は人間世界を離れて空を浮遊しているはずだ。どう在りたいのだ。何を望んでいるのだ。もしもそのように自分に問いかけることが出来たなら、目の前にはいつも、選択肢が用意されていたことに気付くだろう。他人の声に積極的に耳を傾け、自分の考えや思いを押し殺して、他人の観念のなかで永遠に生きていくか、あるいは、他人の声を積極的に消去し、自らの思いに意識を向け、他人の観念とは異なる領域で自らの世界を築いていくか。前者をA、後者をBだとする。選択肢はこのふたつしかない。つまり、自らの真実へと至るには、自分が何者であるかを知るには、Bを選択すればよいのだ。少し先の未来でも、またBを選ぶのだ。他人の観念によって中心からずれた分だけ、修正していけばいいのだから。選択されなくなったAは、徐々に姿を消していく。忘れられていく。かつて見ていた幻想世界が、取り除かれていく。                      
 自分自身に帰っていくために、街に繰り出す必要があった。様々な対象が発する観念に光を当てる術を知らなくてはならなかった。選択するという行為の連続が、自分の存在理由を確定させていく、という事実を身をもって味わうことをしなくてはならなかった。歩んできた全ての道のりは、真実へと至る道のりだった。


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