
〈奇数月第1月曜日更新(祝日の場合は翌営業日更新)〉
風谷大青(岩手県岩手郡)
イオンの中を歩いていたら、幟に、こんなことが書いてあった。「たくさんの女心をもたらします」、何かと思って、よく見てみたら、手摺の陰になって、女の上のウ冠が隠れていた。たくさんの女心や安心をもたらすのも、友愛があればこそであろう。
我が国の現在の首相は、「友愛」の言葉を掲げているが、子持ち世帯への友愛の情は持ち合わせているが、愛煙家やたばこ農家への友愛の情は持ち合わせていないらしい。私は、たばこ税の優良納税者である。我が国の政治家は、増税というと、何故、真っ先に、たばこ税を上げようとするのだろう? 煙草は、体に悪いと、彼らは言うが、体にいいのである。それを、三段論法によって、以下に証明しよう。
「煙草は覚醒作用やストレス解消など、精神に良い。精神に良いものは、肉体にも良い。故に、煙草は体に良い」見事な、論証であろう。これを、覆すことは、全知全能の神にもできまい。以上のように、煙草は体に良いのだから、首相の主張する、「国民の健康のために、たばこ税を増税する」という言葉は、信憑性は、全くないのである。
全く、「友愛なんて、よう、言うわい」と、叫びたくなるのである。子ども手当を創設したら、子どものない家庭は、増税になるという。八方美人と言われる首相も、四方くらいの人々には、美人でいられないのである。首相も今以上のとてつもない金持ちになり、国民全員に金をばらまくなりしなければ、全方向的に、美人にはなれないのである。
友とは、自分と、対等な者ではないのか。自分より上のものは先生などと呼び、下のものは、後輩などという。真の友愛の情は、対等なもの同士の間に、生まれるのではないか。自分より上のものが、不条理に怒ったりしても、その間違いを主張するのは憚られ、下のものが間違ったことをしたら、容易に窘めることができよう。対等なものが、もし、良くないことをしたら、気兼ねなく、注意できるだろうか? それは、当人同士の関係による。友と言っても、様々な力関係、親疎、利害関係などがあり、言いたいことも言えなかったり、言わなくてもいいことを言いすぎたりすることもあろう。
動物と人間の間に、友愛関係は可能であろうか? 私は、可能であると考える。愛犬のポン太君は、私のことをどう、考えているかは、わからないが、私は、彼が、家族の一員であると思っている。母はよく、妹が、ポン太のことを、「犬だ」と蔑んでいると文句をいう。母は、ポン太を、「名トレーナー」と呼び、転ばされながらも、散歩を楽しんでいる。私も、彼と散歩をしたりすることは、楽しみである。彼は、我々の呼びかけに反応し、「アオ」とか「アウ」とか、応える。私たちは、ポン太を愛し、ポン太も私たちを愛している、と思う? 思いたい? 思っているであろう? ……。
友愛の情とは、ある意味、壊れやすいものかもしれない。友達だと思っていた人に裏切られたり、自分が裏切ったと、思ったことのある人も、多かろう。どちらかしか生き残れない状況で、友人に対して、貴方は、どのような行動をとるだろう? 相手を殺すだろうか? 自分が犠牲になるだろうか? 2人とも死ぬことを選ぶだろうか? 何とか、2人とも生き残れる道を、模索するであろうか?
血のつながった者同士でも、憎み合っている人々も、案外、多い。あるいは、血がつながっているからこそ、であろうか? 血縁関係のない者同士にも、親愛の情を感ずるのが、「友愛」であると思う。あるいは、血縁関係にないからこそ、愛し合えるのかもしれない。
「友愛」という愛が、地球上に溢れたときこそ、紛争はなくなり、貧困はなくなり、飢え死にすることもなくなり、一人死にゆく寂しさも、なくなるのではあるまいか。
COOL(岐阜県加茂郡)
友愛とは何か。鳩山首相には悪いが、絶対不可能な奉仕精神だと定義したい。
なぜなら友愛とは「知人に対しては献身的な愛を捧げ、見知らぬ他人に対しても必要な愛を惜しまないこと」(『新明解国語辞典』とあるからだ。これは正直凡人には不可能な目標である。
第一に、知人に対して献身的な愛を捧げること。これが不可能である。例えば父母。常にお世話になっているこの二人に、私たち子どもは献身的な愛を捧げることが可能だろうか。答えは否である。両親に反抗することはあっても、献身的な愛を捧げる人などめったにいないはず。それは周囲を見ても、自分を振り返ってもわかる事実である。
そもそもこの場合、「献身的」という言葉自体が怪しい雰囲気を醸し出している。「献身的」とは「自分を犠牲にして、他人(社会・国家)のために尽くす様子」(同)である。
これは自己犠牲の精神を表しているのであり、だからこそ絶対不可能である。現代において個人を犠牲にして他人のために奉仕する人など、珍しい、奇特な人でしかない。
したがって、それを承知で「友愛」と叫ぶこと自体馬鹿げている。人はだれも自分が一番かわいいのであり、他人のことなど知るよしもない。ましてや、血筋の繋がった両親に対して自己犠牲の精神を誓うなど血迷った行動でしかない。
両親でなく、「知人」が友だちだとしても、果たして友だちのために自己を犠牲にできる人間がいったい何人いるだろう。少なくとも私はその一人では絶対にないと、自信を持って言える。
熊に襲われた人間が友だちを置き去りにして木の上に上ってしまったように、人は自分が一番大事で、かわいいのである。知人のために自分を犠牲にしようとする人間など、信用できない人間か、馬鹿げている人間か、どちらかでしかないと私は思う。
こう考えてくると、第二の問題となる友愛の定義「見知らぬ他人に対しても必要な愛を惜しまない」というのが、いかにいかさま的かがわかるであろう。知人に対して献身的な愛を持って接すること自体難しい。にも関わらず、まったく知らない人に対して自己犠牲の精神を持つことができるだろうか。
そんな人間がいたら、私は是非ともお目に掛かりたいと思う。「他人を見たら泥棒と思え」という言葉が示す通り、他人に対して優しく接し、失敗する例は多々ある。結婚詐欺にしても、おれおれ詐欺にしても、これと同じである。見知らぬ人に対して必要な愛を惜しまなかったら、反対に騙されるか、身ぐるみはがされるかのどちらかだ。
たしかに、マザー・テレサはそれができた。彼女はインドのスラム街で働き、見知らぬ人たちを助けたのである。それはまさに「友愛」の精神を実行した結果であると思う。彼女のような人にこそ「友愛」という言葉はふさわしい。
凡人である我々には彼女のような気高い、純粋な行動は真似できない。とすれば、どうすればいいのかは決まっている。他人に対して優しくなどしないことだ。
キリスト教では「隣人愛」を歌っている。「汝の隣人を愛せ」とキリストは言った。右の頬を打たれたら左の頬を出せ」とも言った。打たれたら怒るのではなく、左の頬も打ってもらうような自己犠牲の精神で接しなさいと教えた。それは理論的には正しいが、あくまで理想の生き方でしかない。現実にそんなことをすれば、損をするか、失敗して社会的に抹殺されるか、どちらかである。
繰り返す。友愛とは絶対不可能な奉仕精神に他ならない。それはあくまで理想であり、現実にはほとんどありえない目標である。民社党がこれを叫べば叫ぶほどむなしい思いを抱くのは、決して私だけではないだろうと信じている。
鈴木康央(奈良県奈良市)
太宰治のあまりにも有名な小説「走れメロス」には、中学生くらいに初めて読んだ時から、何かしら胡散臭いものを感じていた。今思うに、その理由はメロスとセリヌンティウスとの友情が人工的契約に基づいたものである、と無意識に感じていたからであろうと思う。彼らの関係は契約的であるがゆえに、最後にお互い殴り合って確認せねばならなかったのだ。彼らはその後も事あるごとにあの経験を語り合い、二人の友情を確認し続けることになるだろう。ひょっとしたらまた殴り合わねばならないことが生じるかもしれない。こういうのはどうも「友愛」とは呼べそうにない。
では、例えば甲子園を目指す高校野球チームのメンバーたちの関係はどうであろうか。よくインタビューなどに答えて言う。「僕らは辛いきびしい練習を共に堪え抜いて、血と汗を一緒に流してきた固い絆で結ばれたチームメイトです。最高の仲間たちです」と。うがったことを言うようだが、私にはこれは一時的に熱に浮かされた状態にすぎないように思える。野球に限らずいかなる団体競技においても、そのチームメイトが団結するのは勝利という実質的目的が先にあるからこそであり、多分に意図的な結びつきであるといえよう。おそらく名門と言われるような強いチームに限って、その中では嫉妬や侮蔑がぐるぐると渦巻いているにちがいない。だからこそ猛練習して余計なことを考える時間を奪い、目標を決めて全員一丸となって熱病状態になるよう努力するのである。こういうのも「友愛」と言うにはほど遠い。
では本当の「友愛」とはどんなものなのか? 言うまでもなく、これはあくまでも私の個人的見解にすぎないのだけれども、結局「二匹のハリネズミの関係」の譬えが一番適切なように思える。即ち、二匹のハリネズミの距離が離れすぎているとお互い寒い思いをする。しかしまた近づきすぎるとお互いの針で相手を突き合って痛い思いをすることになる。適当な距離を保つことが肝要であるという格言である。
実際、友と思う人物と久しく連絡がないと寂しい思いをするだろう。メールや電話も無いよりはましだが、時には献酬して談笑したいものである。
一方、確かにいい人間なのだが、時としてうっとうしく感じる友人もいる。それはえてして過度の干渉、あるいは親切の押し売りとも呼べる類のものを感じる時である。本人は心からこちらのためを思ってしてくれる行為も、こちらにとっては余計なお世話と感じることがある。友人であるからそれが親切心から発したものとわかっているので、言い返すこともできなくて苦しい。こういう経験は誰にでもあると思う。
ハリネズミにも並外れて針の長いのやら、その本数の多いのやら色々いるだろう。畢竟、人間二人いれば男女の違い、年齢の違い、生い立ちや環境の違いなど色々異なるのが当然。たとえ親族であっても、感性やものの考え方まで全く同じであることなど有り得ない。従って、そういう生育過程によって形成された個人的趣味や思想を、たとえ自分にとってどんなに楽しく有意義なものであろうと、そしてお互いよく理解し合える仲だと認めていても、決してそれを強要すべきではない。相手の方から求めてきた時に提供するのが最善だと思うのである。
距離を保つこと〜人によってはかなり疎遠な感じを持たれるかもしれないが〜私としてはこれが一番二人の関係を持続させるもの、「友愛」だと思っている。
ところで、「恋愛」というのは押しつけが許されるし、またそれゆえ苦悩も味わうだろうが、そういう過程自体に意義がある人生経験である。この点で「友愛」とは全く違う性質のものである。
浜田節子(神奈川県横須賀市)
一般に友愛と言えば、≪協力し合ってみんなと仲良くすること≫というイメージである。
けれど、更に友愛を考えていくと太宰治の『走れメロス』に見るような最後まで信じぬく意思の固い友情に行き当る。嘘・疑惑・嫉妬など、負の精神を除外する強い意思の下に成立する関係である。友愛は普遍的な憧れに近いから、遠く眺める美しい景色に似ている。手が届きそうでいてなかなかその域にまで達しない。友愛が成立する条件として、礼節がある。お互いの領域に荒々しく踏み込んではいけないという配慮と相手に対する揺るぎのない信頼が不可欠に思われる。
友愛は相手(対象)との精神的な結びつきによって生じる関係であれば、環境(空間)や距離(時間)に左右される。類似点や共通点の多さが、時空の幅を縮め、お互い認め合う友情を育むようになるのかもしれない。
友愛・・・平穏無事な関係を一般的な意味で友愛と称することがある。
互いを信頼し敬意を払い、喜びや悲しみを分かち合うという大人の付き合い、自身のうちに潜む邪念の払拭が第一義である。理想としての友愛は、微塵の不信をも持たないのかもしれないけれど、現実の日常には些細な行き違いが往々にして生じてしまう。
ちょっとした行き違い、トラブル・・・友愛の破綻はごく簡単にみえるが、人間には自己修復作用という働きがある。
過ちなどゲームに思えて人をも自分をも許すという大雑把な考えが芽生え、他人に嫌疑を抱かないぼんやりとした曖昧な浄化作用が生じてくる。
鈍感になってしまった故の友愛の情、 あくまで純粋とは程遠い混濁・混沌の中の仲良し=友愛である。
厳密な意味での友愛は確信がないので明言できないが、友愛は不思議な謎の領域にある。掴もうとして掴みきれない友愛の情。恋愛には一目惚れがあるけれど、瞬時のうちに友愛の情がわくということもあるかもしれない。
友愛を語るのに、なぜきっぱり説明できないのだろう・・・それは個人の中だけでは成立不可の関係だからかもしれない。
客観的にもそれを知ることは難しい。友愛のなかには仲間意識という微妙な束縛が生じることがあり裏切りが背中合わせに内在するから、外部からそれを看破できないことが多い。つまり、友愛の成立は常に自分と相手(仲間・社会)との間にあるので、友愛を確信的に把握することは困難である。
自由・平等・博愛の精神という大前提の下の友愛は、客観的によく分かるような気がする。美であり、善であり、真実である友愛は理想の旗印として、人生の指標でもある。わたし達はそのように生きたい!という願望を抱いている。そこから外れた邪念に動かされないように自制している。
≪友愛は聖域にある≫
近づけないわたしの後ろには壊れかけた友愛の残骸が幾つも転がっているかもしれない。
しかし、それでもなお、友愛はわたしの前の指標である。
福田和人(千葉県千葉市)
友愛を辞書で調べると、
「兄弟の間の愛情」
「友人に対する親愛の情」
「友情」
などと説明している。そこで、友愛を、愛情と友情を足して2で割ったようなものだと仮定してみよう。
まずは愛情の定義である。
リルケの『書簡』に次のような文章がある。
「愛がほかのことにもまして困難なのは、愛が高まってくると、自分をすっかり投げ与えようとする衝動が起ってくるからです。」
この文章に私は共感する。愛情とは、利益を求めない、損得感情とは別次元のものだと思っている。
友情の定義は何か。
エピクロスの『断片』に次のような文章がある。
「友情はみなそれ自身のゆえに望ましいものである、利益から出発するものではあるが。」
意外に思う方が多いかもしれないが、「友情」というものは最初は利益を求める損得感情から生じるものである。
子供の頃の損得感情は、金銭的なものに限らない。遊び心が旺盛だから子供にとっての「利益」は多種多様である。それが原因で 「友情が利益から出発している」という認識が持てない。
大人になってからの「利益」は限定され、分かりやすい。金銭的なものが大半だといってもいい。大人社会の問題の大半は「お金」で解決するからである。
こうしてみると、「愛情」と「友情」を足して2で割るなんてことはできないことが分かってくる。両者は水と油のようなものであり、短期間に混ざり合ったとしても、いずれは分裂してしまう。水と油の分裂は科学的真理であるが、愛情と友情の分裂は人間学的法則ということができよう。
愛情と友情が混ざり合った状態は短期間の仮の姿であり、いずれは分裂して元の状態に戻り、「利益」を優先する現実派と、「無償」が本質の理想派に分裂するしかない。
つまり、友愛とは、人間学的法則に反した虚構である。
前川幸士(京都府京都市)
「友愛」とは、「fraternity」の概念を表す訳語であり、「友情」(friendship)とは異なる。人類全体を一つに包み込む人間相互の愛であり、「博愛」(philanthropy)と同義である。「友愛」の観念は、西欧では伝統的な価値観であり、古くはアリストテレスも相互に相手にとって善きことをねがいあう点で同類の有徳の人間同士の親愛の情の意で用いている。しかし、「友愛」の観念がより明確なものとなったのは、キリスト教において、人間の神への愛と人間相互の愛として「アガペ」の観念が確立され、神を愛するがゆえに隣人をも愛し、汝の敵をも愛するという、人種や階級や性別を超えた人間相互の隣人愛においてである。
そして、この「友愛」は単なる観念にとどまらず、慈善的扶助の行為として精神的義務とされ、具体的に制度化されていく。そして、17世紀中葉から工業化の進展にともなって、イギリスで労働者・職人の間で存続していた友愛団体の伝統は、社会的な制度として労働者の共済組合として発展し、労働組合の母胎となり、さまざまな仲間団体として政治活動や社会活動の基盤となったのである。
日本において、この「友愛」の概念を最も具体的に組織化したのは、賀川豊彦ではないだろうか。彼は、作家でありキリスト教の社会運動家であるが、ビジネスの才能を持ち合わせていたため、最も具体的な実践を行うことができたのである。彼を最初に見出したのは改造社である。神戸のスラムに一風変わったキリスト教の牧師がいて、慈善活動の傍ら自伝的な手記を書いていると編集部が聞きつけたのである。原稿はちり紙や広告紙の裏に書かれていて、テニヲハも間違いだらけであった。信仰に苦悩する学生を主人公とした賀川豊彦の手記は『死線を越えて』のタイトルで雑誌『改造』に掲載される。これに対する作家、文学者からの反感は凄まじかったが、読者の反応は非常によく、連載は継続された。
この小説の主人公は。さまざまな精神の遍歴を経たのち、神戸のスラムに入り、キリスト教の伝道に努め、友愛を実践した貧困救済や労働争議に献身する。「友愛」の観点から現実の社会問題をルポルタージュの形で取り上げたところに、この作品の時代的意味があるのである。日本の文学史は、純文学や私小説を中心に偏って記述されており、読者の側からのアプローチに欠ける。文壇は売れ筋の本を通俗的と片付けてしまうため、ベストセラーを考察する発想がなかった。出版ビジネスの投機的側面が軽視されていたのである。
『死線を越えて』は『太陽を射るもの』、『壁の声きく時』と三部作として書き継がれ、その印税収入は15万円と云われている。このほかにも賀川豊彦は次々とおよそ20冊の小説を書いている。信仰の書やキリスト教の研究書もあった。スラムでの活動で多忙な彼には時間がないため、教会での説教や各地での講演の速記を起こしたものも本となった。その印税収入の総額は21万円、現在の金額で10億円とも云われている。彼は、この金を貧困救済事業とストライキの援助金に使った。そして、大阪に共益社という消費者生活協同組合をつくり、新製品を売り出す。グレイのコーディロイのジャケットであるが、これが賀川服と呼ばれ、数年間に4万4千円もの利益を出している。共益社に前後して神戸で神戸購買組合もつくられ、これが後に神戸生協となる。
賀川豊彦は、鈴木文治の友愛会にも接触し、友愛会関西労働同盟会の理事となったこともある。戦前の世界的経済危機の中から出発して、直感的な独自の経済思想とシステムによって、貧困問題に立ち向かった。彼の創出したコミュニティーは、国家や政府によるものではなく、協同組合や農民組合などの中間団体であり自発的結社である。つまり、「友愛」の精神を具体化した公共団体であり、「友愛」のネットワークである。ここには、不況と貧困の現在を打開する鍵があるような気がする。
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