哲学カフェ

 

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第101回

真言とは何か
 

(五十音順に配列させて頂きました/編集部)


 


コロナで「三密」が避けられたとき、仏教の「三密」をするためのマントラの如く、SNS というマントラが増えた。

 島袋櫂(愛知県)


 真言を唱えれば、生きていけるという思想が理解されないのは、それが、合理的でないからという近代的な不安からである。真言密教の真言には下記のようなものがある。

   大日如来:オン・アビラウンケン・バザラダトバン
   不動明王:ノウマク・サマンダ・バザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウン・タラタ・カンマン
   釈迦如来:ノウマク・サマンダ・ボダナン・バク
   阿弥陀如来:オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン
   薬師如来:オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ
   観世音菩薩:オン・アロリキヤ・ソワカ
   地蔵菩薩:オン・カカカビ・サンマエイ・ソワカ
   文殊菩薩:オン・アラハシャノウ
 
  確かに、真言は、呪文の如く、合理的ではないように思える。ならば、現代人は、「真言」を唱えることはないのか、ということを考えいこう。
 「真言」からもっと領域を広げても、合理的でないものはすべて捨て去ってしまったわけではないということを私たち日常から考えてみたい。
 例えば、受験生は受験前にキットカットを食べるし、恵方巻きも一応、決まった方向を向く。部活の試合の前は、カツ丼を食べてゲン担ぎをする。それらは、意味はないのだが、そうすることで、心が平安になるし、だからうまく行ってご利益があると考えることだってできる。 
 昔の真言は、まやかしで、信者は騙されていて、全ては嘘だったのだろうか。
 宗教と似而宗教の紙切れ一枚ほどの狭間は、どちらも原理は同じだが、それを教祖の自己利益に使うかだけに私には思える。
 真言密教の「密」にはふたつの意味があり、万物の奥に隠れている、一般には分かりにくい真理。もうひとつが、儀式や身体的実践によって「言葉にできない悟りの体験」を共有するプロセスという意味がある。
 ふたつ目の「蜜」について、日本の真言の始まりの真言宗では、真言は、身(身体)、口(言葉)、意(心)を仏のはたらきに合わせる「三密(さんみつ)」の核となるものとして非常に重要視された。
 真言密教の三密(さんみつ)とは身体で印を結び、口で真言を唱え、心で大日如来を念じることで、仏と心身が一体化(入我我入)することである。
 私たちのSNS のつぶやきは、このグローバリゼーションのなかで発生するローカリズムの高度情報社会の架空の神話への信仰の中でSNS 空間という本殿の中で「GAFA」と結びついた「SNS」という宗教にマントラを放ち続けているようだ。瞬間的に全てが心身的に統合した恍惚感があり、それをアップしてしまう。
 コロナの時に「三密」を避けるように言われて、私はこの期間にかなりFaceBookを使っていた。私たちは、身と口と心を合わせるために、色々な言葉を、理論化されない思想の素描を心の中でツリーのように形成している。人間は言葉を発することで、その真言の集積や考え方を構築し、安定させようとする。自己を統合するには他者とのコミュニケーションが必要なのだ。しかし、それが断絶させられた時、SNSにそれらを放出することで、無意識のシステムが擬似コミュニケーションという代替を取っていたのだ。
 私はその予防策は、心でマントラを唱えることだと思う。そこにはふたつの意味がある。一つは、そのマントラが正しかろうが、正しくなかろうが、誰にも見せないで、自分で満足することであり、もう一つは、そのマントラを誰かからの借り物ではなく、自分で形成することである。
 それが文学を書くことだし、それらは自分だけの日記でもいい。
 そのなかで、マントラは移り変わっていくし、それを自己哲学の変遷記ということもできるだろう。そして、多発的に文節化されない思想が溢れ出てくるとき、一種のトランスしたシャーマンや巫女のごとく、現代のなにかを掬い取っていて、それが短歌などの詩なのだ。
 私のマントラは「平凡な人間」であり、何かあるたびに、つぶやいている。そうやっていうと心が平静となり、邪心が消え、贅沢から離れ、誠の自分に戻れる気がする。


芸術的抽象性をもった箴言

 鈴木康央(奈良県奈良市)


 「真言」とは仏教の教えで千古不易の宇宙の真理を説き、わずか一字の中に千理を含蓄している言葉である、ということらしい。・・・「らしい」というのは、いわゆる密教真言なるものを辞書レベルで調べたことであるからだ。ゆえにここでは具体的に真言一つ一つについて論ずるようなおこがましい真似は差し控えて、「真理を説く言葉」とはいかなる言葉なのかということを、即ち密教とは無関係に「人を啓蒙する言葉」として考察してみようと思う。
 「一字の中に千理を有する」というのだから、かなり抽象的な表現でありかつ色々と解釈できる、まさに禅の片言隻句に代表されるようなシンプルにして複雑な言い回しなのだろう。同じ複雑といっても日本国憲法や法律関係の書物のようなものとは違う。ああいったものは無理に煩雑にしている感じがする。思うに書いた側が後で色々と口実をつけられるように、わざと解釈しにくくしているのではないか。
 「真言」はその逆だと思う。つまり読む側が各自の人生経験に応じて色々と自分に合った解釈が可能な言葉なり文を言うのだと思う。そのために抽象化、捨象した表現となっているのだろう。小中学校の教科書や新聞記事のような用語・書き方、即ち言葉の最も凡庸な使用法は事実を伝えることが主眼であるから万人が理解しやすいであろうが、それによって個人が自分の問題を癒したり救うことにはならない。
 さて、こういう個人を救済する言葉というのは、その抽象性から「寸鉄詩」もしくは詩に近い形態となるのではないか。実際俳句や短歌を含む韻文の解釈は一つではなく、読み手に委ねられることが多い。・・・と、ここまで書いてゆくりなくも思いついたのだが、これの行き着くところは「芸術」なのではないだろうか。言葉に限らず、絵や音といった抽象的な火種に刺激されて各人が自由に燃焼していく。その動力は各人の素質であり、体験であり、また教育、環境であろう。要は一つの絵画を観て、ある音楽を聴いて、その人が持つ独自の解釈によってその人自身が自分のための救済としたり成長の糧とする・・・それが芸術であろう。
 ここでもう一つ飛躍して考えてみると、なにも芸術作品に接することに限る必要もなさそうだ。そう、自分自身で創作することも大きな癒しとなり、内省となるであろう。「芸術活動」などと大袈裟に考えることはない。ただの落書き(かなり抽象的)だって時には大きな刺激となる。知らず知らずのうちに自作の詩を自作のメロディーで歌って悦に入っていたような経験はないだろうか。
 実際心理療法においても素手で砂をいじくりながら構成していく箱庭や、円の周囲に対照を並べて図柄を描いていく曼荼羅作りなど、心理テストとしての役割プラス自らの気づき、さらには治癒としての効果もある。その他何か楽器を持って(ただ手拍子をとるだけでもいい)何人かで合奏する療法もある。
 いささかテーマから逸脱してしまった。「真言」がテーマなのだから絵や音は置いておいて「言」に集中しよう。箴言・名文を読むだけでなく、自分の言葉で、そして自分の手で書いてみることをお勧めする。その時琴線に触れるものがあれば、それこそが「真言」と言えるだろう。また「お経」を唱えることも従容とした気分になれるなら、十分それなりの効果があると思われる。私などお経は全く知らないけれども、あの複雑にして美しい漢字の行列を見ていると、そこに途轍もなく深遠な別天地があって、自分との間に何かミステリアスな紐帯を感じたりするのである。


真言とは呪文である

 前川幸士(京都府京都市)


 真言とは、サンスクリット語のマントラの訳語で、真実の言葉、秘密の言葉という意味を持つ。密教経典に由来する呪術的な語句であり、主として大乗仏教の宗派で用いられるものである。サンスクリット語であるため、それを漢訳したものが漢字の音読みによって唱える。呪文として唱えることが重要であり、その意味するところはよく判らなくても、判らないままに唱えることに意味がある。浄土真宗には真言はないが、南無阿弥陀仏という呪文はあり、これまた意味もわからず唱えることが大切である。
 仏の真実の教えは、宇宙の真理や隠された秘密を明らかにするもので、本来は人間の言葉で表すことはできないが、方便として世俗の文字や言語を借り、これを観想し心を統一することで、その教えに触れ得るという類のものである。従って、日常使用している言葉で、これを唱えても、ありがたく感じられない。おまじないの呪文であるから、普段の会話に使っている言葉では、効力がない。
 日本語にカタカナ語がはびこっているのは、新しい概念を使い古された語彙で充当するのではなく、語彙の先入観がないように、原語の音をカタカナ表記して、新しい語彙を創出しているためである。同様にサンスクリット語の音を漢字で音写したものは、中国人にも日本人にも意味を即座に想起することが難しく、新しい呪文としての機能を発揮する。
 幼少の頃に視た特撮番組の『レインボーマン』では、主人公が「阿耨多羅三藐三菩提」と《般若心経》の一節、それも「究極の完全な悟り」を意味するサビの部分を唱えることで変身していた。荻野真著『孔雀王』では、主人公の孔雀が法力を発揮する際に真言を唱えていた。法力の種類によって真言が異なり、まさに呪文として機能していた。
 シューベルトの『魔王』作品1 D 328を初めて聴いたのは、小学校の授業中である。教育テレビの番組で、ドイツ語の歌に、藤城清治風の影絵と日本語字幕が付いていた。圧倒的に怖かったことを記憶している。私の早逝した父親は、マサテルという名前だったので、「mein Vater  mein Vater」の部分が、父親の名前のように聞こえて、父親が魔王に連れていかれたようであった。なぜ、このような恐ろしい音楽を創るのか、創れるのか、創る意図はどこにあるのか、まったく以て理解できなかった。夜、ひとりで寝られなくなったのを思い出した。この歌曲は作曲がシューベルトであるが、作詞がゲーテということなので、衝撃が強かったのは、当たり前だと納得させられる。
 その歌詞は、普段は聞き慣れないドイツ語であったため、どこか凄みがあり、恐ろしさも倍増されたのだと思う。後から日本語の歌詞で歌っているバージョンを聴いたが、まったく恐くなかった。恐くないどころか、「おとうさん、おとうさん」という部分で吹き出しそうになった。ドイツ語の歌詞であったからこそ、フィッシャー・ディスカウの声によって心に響いて恐怖心を起こさせたのである。
 真言も、東寺の講堂で 21体の仏像による立体曼荼羅を眼の前にして、普段は聴き慣れないサンスクリット語の呪文のようなフレーズを聴くからこそ、言葉では言い表せないような仏の真実の教えや、宇宙の真理や隠された秘密を観想し、心を統一することで、その教えに触れることができるのである。
 日常生活において、会話などで使い古してしまった語彙は、正確な意志の伝達や会議における議論と交流といった場面では有効であるが、言葉で言い表すことが難しい微妙な悟りの概念、あるいは明瞭に言語化してしまうとありがた味が無くなってしまうといった性質のものには不向きである。そういった性質のものには、意味がよく判らず、唱えることに意味がある真言のような呪文が最適なのである。


真言とは曼荼羅世界との祈祷呪文である

 山下公生(東京都目黒区)


 真言は密教の真言宗が本流であり、他の宗派の真言は亜流である。さらにその水源は、古代インドの宗教バラモン教に遡ることができる。密教は多神教である古代バラモン教に大きな影響をうけ、バラモン教の神々を取り入れ、その神々は御本尊の大日如来を守護する仏たちとなり、その世界観が曼荼羅となった。バラモン教の主要教義は、宇宙の根本摂理であるブラフマン(梵)と、自己の最奥の命であるアートマン(我)と一如になることであり、「梵我一如」である。宇宙の摂理の世界を表した金剛界曼荼羅の中心の大日如来(金剛法身)は、ブラフマンに対応し、無明を悟り様々な摂理を会得した東西南北の如来を統治する。胎蔵界曼荼羅は命の開花を表し、煩悩を昇華した仏たちを統治する中心の大日如来(胎蔵法身)は、アートマンに対応している。真言は曼荼羅世界と交信するための祈祷儀式の護摩、印相、と一体のものであり、その一環である。真言(マントラ)は梵語で唱えられ、おそらく祈祷する仏の名前を唱えて、祈祷内容を述べるのものと推測され、神道の祝詞あるいは言霊のような存在といえる。
 曼荼羅は金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅と一対であり、金剛界曼荼羅の中心には、大日如来(金剛法身)が鎮座し、その身体は仏教の法そのものであり「金剛法身」と呼ばれ、印相は仏の智慧に入ることを意味する「智拳印」である。大日如来の東に鎮座する阿閦如来(アクショーブヤ)は、梵語で「動じない者」を意味し、阿閦如来の身体は青色をしており、仏法の障害を打ち砕く仏の怒りの色とされ、印相は仏が動じないことを示す「触地印」を結んでいる。大日如来の南に鎮座する宝生如来(ラトナサンバヴァ)は、その漢字の示す如く、宝から生まれたものを意味し、富を司る仏である。身体は黄色で、財としての黄金と関係があるとされ、印相は願いを叶えることを表す「与願印」を結んでいる。大日如来の西に鎮座する阿弥陀如来(アミターユス、アミターバ)は、西方に在るあの世「極楽浄土」に住み、衆生を救うため、この世に表れる仏であり、印相は両手のひらを重ねて瞑想する「禅定印」を結んでいる。大日如来の北に鎮座する不空成就如来(アモーガシッディ)は、「何事も成し遂げること」を示している。身体は風を意味する緑色をしており、印相は右手を挙げて手のひらをこちらに向け、人々の恐れを取り除いて救済することを表わす「施無畏印」を結んでいる。
 胎蔵界曼荼羅は命の開花を表している。その中心には、大日如来(胎蔵法身)が鎮座し、煩悩を昇華し命を輝かす仏たちを統治する。胎蔵界曼荼羅は、「院」と呼ばれる12の区画からなり、曼荼羅に描かれない東西南北の門を守る四大護院を合わせた13の院に414尊が鎮座する。1院の中台八葉院は、中心の大日如来を最も近く囲む四如来と四菩薩が鎮座している。2院の遍知院は、如来の智慧を象徴する。3院の金剛手院は、大日如来の智慧と人々をつなぐ金剛薩埵が鎮座する。4院の持明院は、穏やかな般若菩薩と忿怒の形相の四明王が鎮座する。5院の蓮華部院は、大悲で煩悩を払う、観音菩薩が導く。6院の釈迦院の中心は、説法印を結ぶ釈迦如来が鎮座する。7院の文殊院の中心は、文殊菩薩で人々に智慧を授ける。8院の除蓋障院の中心の除蓋障菩薩は、あらゆる障害を取り除く。9院の虚空蔵院の虚空蔵菩薩は、虚空のように無限の智慧を人々に授ける。10院の蘇悉地院は、釈迦院と文殊院の対となるように虚空蔵院をふたつに分けた内のひとつである。11院の地蔵院の地蔵菩薩は、弥勒菩薩が出現する遥か未来まで人々を救う。12の最外院は、十二天や異教の神々などが、内側の諸尊を守る。煩悩を克服するオーソドックスな顕教に対し、密教は煩悩を昇華することが特徴であり、真言はその役割を果たすための曼荼羅世界との祈祷呪文である。


真言とは自分の生き方にも関わってくる言葉である

 COOL(岐阜県加茂郡)


 「真言」とは「真実言葉。仏の言葉」(『集英社 国語辞典』)である。また、AIに聞いてみると「真言を唱える」とは、「真言の教えを自らに受け止めることで、功徳を受け止めることになる」と言う。仏教の用語には違いないが、自分の生き方にも関わってくる言葉であると感じている。
 「真言」と言えば、「般若心経」である。私は親せきにお寺の方がみえるので、昔から般若心経はよく聞いてきた。当初は意味など理解できなかったが、(大人になった現在でも意味は十分理解していないが)、あのリズムの良さが気に入ったので、口で唱えている間に全て覚えてしまった。今でも空で口に出せるのは有難いことだと思う。
 「みんなが選んだ終活」というサイトには、「真言」のルールが書いてある。それによると「㈰最低三回は唱える」「㈪合掌して唱える」「㈫毎日唱える」というルールがあると書いてあった。私は小学生のころから確かに三回以上は唱えてきたし、仏壇の前では合掌して唱えてきたし、口に出すのが楽しくて毎日唱えてきた。その意味ではルールに則って生活してきたことを感じている。
 そもそも、ルールがあること自体、私は知らないままだった。「真言を唱える」ことにルールがあるとすれば、私はそれをわが子や、親戚にも教えていく必要があるのではないかと思ってしまう。もっと気軽に「般若心経」を口に出して唱えることで、「真言」を会得することができるようになれば、もっと若い人たちも気軽に、楽しんで、リズムに乗って得られるのではないかと思う。
 AIに聞くと、真言を口に出して唱えることは「自分の声を頭蓋骨の振動を通して聞くことになる」ので、「真言の教えを自らに受け止めることで、功徳を受け止めることになる」し、「瞑想として精神を集中すること」「リズムのある言葉を唱えることにより、集中力のアップや心の安定に繋がる」と書いてある。自分の経験を振り返っても、「般若心経」を口にすることによって集中力がアップしたことを思い出す。また、お坊さんが「般若心経」を唱えることが、集中心を養うことはよく知られている。
 「真言」と言えば「真言宗」である。お経を唱えることで、悟りを開くことができると教えられてきた。「真言」は仏の言葉であり、それを口に出して唱えることで悟りを開けるようになる。その事実は、社会の授業や倫理で学んできた。これは、信者が「真言を唱える」ことで、仏の教えに近づいていくことを意味している。私は信者ではないが、「般若心経」のリズムの楽しさからはまった一人である。その意味では邪道かもしれないが、リズムから「真言」に入ったのは正しいことであると思う。
 まとめるとこういうことである。「真言」とは仏教の用語には違いないが、自分の生き方にも関わってくる言葉である。言葉に出して唱えることで、体感で会得し、意味が分かるともっと楽しくなる。少なくとも私はこれだったし、同じような人たちは他にもいるに違いない。「真言宗」だけでなく、一般の人たちもまた「真言」に触れることが、人生をよりよくしていくコツだろうと今は思っている。


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