〈奇数月第1月曜日更新(祝日の場合は翌営業日更新)〉
島袋櫂(愛知県)
今、地域の新しさとは、外国人、環境問題、新しい働き方、若者を中心とした歴史への関心である。過疎化・少子高齢化、都会と田舎の対比法、伝統的な文化に重きを置く先輩世代とは、対決しつつも、それはシンメトリーではない。それらは、深層と表層の連続性のなかにあり、過去から未来への継続を意味する。私は保守、リベラルではなく、「オールド・ローカル」と「ニュー・ローカル」と呼びたい。さらに新しい世代は、「国家=資本壊し」を始めている。
「オールド・ローカル」と「ニュー・ローカル」の連続性のなかで、赦しと理解を得ながら、伝統を学び重んじつつ、生活上で現実的にどう変化させるかが、本質的なのだ。
政治的な問題で若者がリベラルな主張を訴える時、老人は、その言葉の「高さ」についていけない。その言葉が正しいかより、安心したいから、その「高さ」の緊張についていけないのだ。老人は、今ここの、安堵を生きたいから、百年先の環境問題や生きるか死ぬかの外国人の権利などは気にはかけてもここでは論じたくないのだ。若者は必死である。私は、若者たちの戦略として、なるべく具体的に話すと良いと思う。そこから「ニュー・ローカル」と「オールド・ローカル」の対話を始めよう。
「ニュー・ローカル」のなかで無視できないのが、アニメだ。アニメとは第三者の視点のマジックリアリズムだ。アニメは超現実的なものを描くのに向いている。作者の自我が完全に反映されていないことが「野生」を完全に失わせている。
思想家吉本隆明は「言語にとって美とは何か」で、言語を自己表出(言語のうち自分の考えや感情を自己表現する機能)と指示表出(言語のうち外に向けた伝達や説明をする機能)に分けた。言葉はその縦軸と横軸の交わりのなかにあるとする。アニメの表現は、指示表出が極北まで至った時代の映画と言える。それを美と言えるかは別問題だが、若者や特に外国人にとってはごく日常的の文化となっている。私は、それと若者の「倫理的」であることは同じであると考えている。今の若者と接すると分かるが、非常に真面目で、倫理観が高く、大人であると言える。反抗する子が少なく、親世代と比較的仲が良いとも言われている。世界観も、知的能力も成熟している。その「倫理的」であることと、指示表出が至るところまで至った芸術とは、同じ時代の根源から出てくるものに私には思える。
「老人の痴」は若者の新しさを頭ごなしに否定することである。たとえ、それが理解できなくても、それは新しい世代の新しさなのだろうと、若者を面白がられないことが、「痴」なのだ。
遅い時間のなかで時間を醸成している老人を「痴」と呼び余裕を認めないことが若者の愚かさである。動作や反応がゆっくりとなることと「智」は全く関係ない。
「遅い時間」の需要は右肩上がりに高まり続けている。グローバル経済が進行するなかで、それに適応することが必要であるとともに、その緊張を緩和する必要も出てくる。緊張のなかで適応し、また、弛緩して「遅い時間」を生きる。緊張と「遅い時間」を使い分けながら現代人は生きていく。自らの余裕を認めることで、他者の余裕を認められる。
私が「遅い時間」を取り返すためにお勧めするのは「少しだけ冒険」することである。日本のこの町と決めた町のビジネスホテルなんかに泊まって、地域資料館、文学資料館、博物館、資料館、美術館などに行き尽くすのである。旅の面白さは、遠くに良い場所があるとは限らないことである。大抵のことは、お金をかければ質の高いものが手に入るが、旅にはこの法則は当てはまらない。よく耳にするが入っていない同県の町に日帰りで行くのもまた良い。それから、ほどほどの高さの山に登山するのもいい。大掛かりな登山じゃなくていい。地域の山でいいのだ。
そのなかで、速さと強さに鞭打たれていたことから解放され、悩みは解消していくのだ。
鈴木康央(奈良県奈良市)
「痴」という字を見ると、私はすぐにドストエフスキーの「白痴」や谷崎潤一郎の「痴人の愛」を思い出す。「痴」には乾いた諧謔的な批難よりも、むしろ心の深い所に感じ入る何かがある。単に物笑いの対象となる「愚」とは意味合いが異なるように思われる。なぜか?
それを探ってみようと思う。
「痴」という漢字を分解すると「知」+「やまいだれ」、即ち知が病んだ状態を言うのである。「理」でもなく「感」でもなく、「知」が煩うところに意味があるようだ。我々人類は「知性」によって周囲の自然を感じるだけでなく道理を知り、考え、予測するまでに至った。畢竟人類が他の生物よりもずっと長けた存在となった大きな要因であることは確かだ。ところがその「知性」によって、人類は次第に非自然的、反自然的な存在へとなってきたのも事実である。表面上我々はその知性を誇らしげに世界を支配していることに満足しているかもしれないが、一方で無意識に、あるいは無理矢理心の奥底に何かしら「後ろめたいもの」を隠してはいやしないだろうか。
五木寛之が何かの本で書いていたのを、気に入ってメモしたものがある。
「〈知る〉ことによって、より深い悲しみ、より深い絶望、より深い困難におちいることもある。また知ることが、かえって虚心に物事を見るための大きな障害となることもある。そんな難しい存在が〈知〉というものの実体なのです」
知に潜在する畏怖すべき力をうまく言い表していると思う。
つまり「知」と「痴」は表裏一体のものであって、はたしてどちらがプラスでどちらがマイナスなのかも明言できないのではなかろうか。そういうわけで自称「知人」とする者が他人の「痴」を眺めると、時として単に笑ったり馬鹿にしたりするばかりでなく、反射光を受けたように自分の心の奥に抜き差しならぬものを感じ入ることがあるのかもしれない。
「知」は時を計りカレンダーを作り、数学の定理を発見し、道具を作り機械を発明してきた。一方「痴」は物事を忘れ、人から嘲笑され、また人を傷つけ、殺しさえしてきた。しかし「痴」は個人を傷つけ殺すことがあるけれども、「知」は見知らぬ他人を、しかも大勢まとめて殺害してきたのではなかったか。もう一度記す。「知」と「痴」は裏表であり、甲乙つけがたいものである。
ここで幾つか「痴」のついた熟語に触れておこうと思う。
「愚痴」:これによって相手が反省したり向上することはまずない。逆に反感を煽るだけである。本人はこれによってストレスを多少とも軽減できると思っているのかもしれないが、実のところはさらにストレスを溜め込むだけのことである。
「痴情」:辞書的には男女間の恋のもつれ、迷いということであろうが、恋とはそもそも混迷するものに他ならない。「知」がコントロールする恋など、面白くもないし全く意味ないものではないか。不気味でさえある。
「音痴」:基本的には音に関する感覚が鈍く、音程にズレが生ずることを言う。しかし音感に限らず、例えば方向音痴、味覚音痴などのように特定の器官の欠陥を言う場合にも使う。しかしながら、これを感じるのは他人であり、本人が自覚しなければ特に問題なし、大した障害ではない。
前川幸士(京都市伏見区)
痴は、仏教では三毒とされる最も根本的な三つの煩悩のひとつとされる。三毒とは、すなわち貪・瞋・痴であり、貪が貪欲、瞋が怒り、痴が無知蒙昧を意味する。貪や瞋が人間に本能としてそなわっている機能であるのに対して、痴は、何も無い状態であり、自己防衛のための本能すら無いという状態である。貪や瞋が周囲や他者に対して、直接の悪意として向けられるのに、逆に無知・無明は一方的に損失を与えられるだけの存在のように感じられる。坂口安吾に『白痴』という小説があるが、知恵の足りない女性をめぐってストーリーが展開することから、タイトルが付けられたものと考えられる。
日本語の痴には、知恵が足りない、愚かであることの意味の他に、性的に無節操な状態、男女関係において理性を失った状態を示すこともある。谷崎潤一郎に『痴人の愛』という小説があるが、こちらは性的に無節操な女性をめぐってストーリーが展開することから、タイトルが付けられたものと考えられる。どちらの小説も主人公の男性が、痴を象徴するかのような女性に魅かれていく様子を描いている。仏教では、痴は、毒や煩悩であっても、時には人間的な魅力となる場合もあるのである。
禅では、「大痴」や「大愚」という言葉が、ある種の理想の状態を示しているように使われている。修行をつんだ高僧がこの状態・境地に至ると、一切の苦が苦で無くなってしまうということである。「Stay hungry, stay foolish」は、スティーブ・ジョブズの言葉で、現状に満足することなく、好奇心を持ち続け、愚か者であるかのように常識に捉われず、柔軟な発想を持ちましょうというくらいの意味であると考えられている。しかし、この言葉は「大痴」や「大愚」といった禅語に由来することは間違いない。彼は若き日にインドを旅し、そこで仏教に触れ、禅や東洋的瞑想に興味を持ち、カリフォルニア州の禅センターに通い、座禅をしたり仏教や禅の講義を聴いたりしていたのである。
痴とは、苦が苦で無くなる境地であるばかりでなく、常識に捉われず、柔軟な発想を持ち続けるための才能なのである。心に拘りがあると些細なことに捉われ、すぐに行動できないことがある。何事に対してもニュートラルな状態に心を保つこと、これが禅の境地なのかも知れない。
禅の高僧である一休宗純の頓智に、「このはし渡るべからず」というものがあるが、これは、駄洒落やユーモアではなく、これこそ禅の境地を体現しているものだと考えられる。目の前に橋があり、「このはし渡るべからず」の札が立っていると、誰もが橋を渡ってはならないと考えるが、心に拘りが無いと、端を渡らず中央を渡ることができるのである。まさに、常識に捉われない柔軟な発想である。頓智とは、臨機応変に出る知恵であり、機智のことをいう禅語であるが、心に拘りがあったり、ものごとに捉われたりしていると、よいアイディアなど何も出てこないし、柔軟な発想は生まれない。
禅はZENとして世界に伝播したが、痴=foolishが心の状態として最高のものであることを、国境を越えて、多くの人々に知らしめたのは米国人であったことになる。しかし、そのようなことは、どうでもよいのであって、拘るようなことではない。
言って仕方がないことを言って嘆くことを、現在の日本語では「愚痴」というが、これは愚でもなければ、痴でもないことになる。過去のことは変えられないし、他人の意見を変えさせることも難しい。そのようなことに、いつまでも拘泥していることは、いつまでも苦に捉われていることになる。愚と痴という同じような意味の語を重ねて強調している。愚痴を言うこと、愚痴ることによって、ストレスを発散し、心を苦から解放しようという行為が愚痴なのかと考えたが、ただ単に、愚痴ることは、愚かな痴れ者の行為であるということを示しているだけなのかも知れない。しかし、愚痴を聞ける人は、人間として魅力がある。
山下公生(東京都目黒区)
痴は仏教で煩悩の根源となる三毒の(貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち))の一つであり、この三毒を現代風に言い換えると、「平穏な人間関係を損なう三つの源流とは、身勝手な欲望、利己的怒り、愚かな考えである」と訳することができる。痴は考え方の誤った方向性を意味するもので、決して知的能力の低い者を指すものではなく、知能指数と痴との相関関係はない。むしろ、知的能力に秀でた者ほど、邪な考えに囚われ、痴なる人となることが多い。人間の価値は知能指数で決まるものではなく、人間の尊厳は明確な所在の判明しない霊魂により決定される。知的能力の高い者ほど高学歴者が多く、社会的地位の高い職につく傾向があるが、人間の尊厳は、人種や知的能力の高さ、あるいは社会的地位の高さや保有資産の多さとは関係なく、すべての人が平等に本来持っている権利である。人間の差別的視線による偏見が痴の始まりであるといえる。差別的視線は猿から進化した猿人の動物的痕跡であり、争い事の原点である。すべての人間を同等に見る澄んだ視線は、神に光りを注がれ霊的に目覚めた人々に生れる。「人は血脈によらず、肉の欲によらず、人の欲によらず、ただ、神により生れり」(ヨハネ1-13)。つまり、神の御前において、人は皆平等である。
一般的には知的能力の低い者が痴なる人だという誤った認識が浸透している。よって、知的能力の高い者の痴なる思想は、後光効果の尊敬フィルターにより高邁な思想と称賛され、まるでウイルスの如く感染し、病んだ世相を形成する。やがて病んだ大衆は、思考のブラックホールの暗黒の闇に囚われ、悪魔の強力なパワーに誘導され病んだ世相は現実に顕現化する。それがテロによる残酷な無法行為であり、ファシズムによる残虐な国家侵略であり、社会主義専制国家による冷酷な粛正などで、痴なる思想が邪悪なことを歴史は立明してきた。痴なる思想家とは、信仰深き人を痲薬患者と愚弄した唯物史観の石頭の猿人マルクス、神に敵意を抱き信仰を奴隷根性と侮辱した超人思想の狂人ニイチェ、あるいは神を無視して隔離した個人を起点とし、無法思想アナーキズムの展開を内存するフランス実存主義の近視的思案者のサルトル、そして存在の根拠を自己に閉じ込め、ニイチェ思想と水面下で連動し、ファシズム的展開を内存するドイツ実存主義者の自閉症思案家のハイデッカー、などが上げられる。
痴なる思想家には共通の要因がある。第六感の霊的感度が衰退し、五感に固執しその思考は即物的収縮傾向にあり、霊的感受性に乏しい。当然、その思考は自己の五感の領域内に留まり、他者との共時性、共存性、による調和と循環の感覚が希薄であり、その思考には、水平線、地平線、の奥行きと、宇宙へ連なる無権の空間と永遠の時間による共存意識がない。それは、デカルトの哲学「我考える故に我在り」のを彷彿させる。これが、実存主義の本質である。その対極の思想は敬虔な科学者パスカルの「神が共に在るが故に思考は宇宙さえ包むことができる」である。また、人間の原動力は動物本能や物的欲望のみであると断言し人間を猿の如く扱い、神を妄想だと豪語する。それが精神分析のフロイトや唯物史観のマルクスである。
痴なる思想とは、究極的には無神論である。神は存在するか否かの問いとは、二背反律の命題であり、論理的結論には至らない。にもかかわらず無神論者が何の根拠も示さず、神の存在を声高々に否定する有様は滑稽で哀れである。神の存在を確証する思想の根拠とは、啓示の歴史実証に在り、普遍的思考の座標で示される。その原点の神は、光りであり、愛であり、正義である。人も宇宙も光りがなければ暗黒の闇を彷徨う塵に過ぎない。神が在るが故に星は煌めき、人の命は光り輝く。つまり、痴とは神の光を閉ざし傲りのランプに火を灯して闇を凌ぐことである。
COOL(岐阜県加茂郡)
痴とは「①おろか②物事に夢中になり、正常でなくなる。特に、色情についていう」(『集英社 国語辞典』)である。意味から考えると、①が先にあり、そこから②が派生したのではないかと考えられる。色情に狂う人が「おろか」であるのは確かだからだ。
ただ、私はこう考える。「痴」は確かに「おろか」という意味があるが、本当にそうなのかという疑問が残るという点だ。必ずしも「痴=おろか」だとは限らないと思う。
試しに「痴」を使った熟語を思いつくだけ挙げていくと、痴女、痴人、痴呆、痴漢、痴情、痴態、痴話話などなど、確かに「色情」に関する熟語が多いのは否めない。とはいっても、痴呆、痴態などは「おろか」の意味が強い。そういえば、ドストエフスキーの書いた「白痴」は、ムイシキン侯爵の努力が空回りしてしまい、現実的には破滅してしまい、最後にはと自分も発狂してしまうというストーリーだったことを思い出す。これなどは色情というより、純粋過ぎるがゆえに発狂してしまったと考えるのが妥当である。従ってムイシキン侯爵を現している「白痴」とは、おろかであるという意味が強いのだろう。
現在の「認知症」はかつて「痴呆症」と呼ばれていた。実際、私の祖母も病院で「痴呆症」と診断され、入院したことがある。私はまだ子どもだったので「痴呆症」という言葉の意味すら理解できなかったが、意味を理解してからは「どうして痴呆症と呼ぶのか」というところが気になった。
辞書で調べたら「痴呆症」の「痴」が「おろか」という意味であり、「呆」が「呆ける=頭の働きが鈍り、記憶力や判断力がなくなる」(『集英社 国語辞典』)という意味だったので、ショックを受けたのは当然だった。父母は私に説明するとき、「おばちゃんはボケてしまったのだ」とよく口にしていたが、それは「おばあちゃん子」である私にとってどれほど衝撃的だったのかは、言うまでもない。
大人になって再度「痴呆」について考えたとき、「痴呆症」という意味が実は人を馬鹿にした言葉であることを知った。やがてその言葉は「認知症」という言葉に変わっていくのだが、それはその言葉自体が差別用語であると指摘されたからだった。それはそれでよしとして、果たして「痴」を使った言葉が全て「おろか」なのかと考えた。
例えば前述した「白痴」という作品。ムイシキン侯爵は発狂してしまうので、確かに「おろか」には違いない。しかし、それは本当に愚かなことなのか。純粋さを保っていたがゆえに発狂してしまったとしたら、純粋さを失って発狂しないのと比較したら、果たしてどちらが幸せなのだろう。悪賢くてずるが賢いムイシキン侯爵になり下がっていたら、発狂するのは免れてていたかもしれない。しかし、本当にそれでよいのか。周囲から見たらムイシキン侯爵は愚かな人かもしれないが、本人はそう思っていないのではないか。それで本人は幸せだったのではないか。
そもそも「おろか」の規準はどこにあるのだろう。奇人変人は自分を「おろか」だとは思っていないが、周囲が「おろか」だと判断しているから「おろか」だと言われる。「他者と違っているからおろかだ」という判断規準自体、実は間違っているのではないか。少なくとも個性が尊重される現代では、愚かであることはマイナスにはならない場合もある。そう考えると、「痴人」という言葉も差別用語だとしていずれは淘汰されてしまうかもしれない。そして、かつては「おろか」だと言われていた人も「すごい人」とバズるかもしれない。時代とともに「痴」の意味も変わっていくのだから。
繰り返そう。「痴」は「おろか」という意味に違いないが、いつ、どこでもその意味が通じるとは限らない。時代とともに言葉の意味は変化していくものであるとすれば、「痴」こそ真っ先に意味の変化が存在するのではないかと考える。
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