
〈奇数月第1月曜日更新(祝日の場合は翌営業日更新)〉
くうる(岐阜県加茂郡)
利他とは「自分を犠牲にして、他人の幸福や利益のために尽くすこと」(『集英社 国語辞典』)である。さらに、同じ辞書では「愛他主義」とあり、「利己主義」の対義語とも書いてある。つまり、利他とは自分のことは後回しにして、他者の利益を対一優先に生きる生き方であると言える。
そう考えると、利他とは現代人に欠けている考え方だと感じてしまう。ネットを見ればYouTubeで自分の好きな動画を流す人たち。彼らは最初は自己表現のつもりだったろうが、それか稼がないと生きていけないので、次第に自分の利益のために動画を流すようになっている。有名なユーチューバーが稼ぎまくっているのは知ってのとおりである。彼らは恐らく「自分たちは他社の幸福のために動画を流している」と主張するだろうが、そうではないことは既知の事実である。これなどは「利他」の精神とはかけ離れていると考えられる。
震災などの災害が発生したとき、被災者を救出する人たちがいれば、反対に倒壊した家屋から金品を盗んでいく輩がいる。阪神・淡路大震災でも、東日本大震災でも、熊本地震、能登地震でも同様の事態はあったと聞く。こうした行動はニュースなどで報道されるが、人の不幸につけこんで自分の利益のために行動する人たちを、私たちは批判的、非難的な目で見ている。それは彼らが「利己主義」の代表であり、利他主義などとは無縁であるからである。
かつての日本にも利己主義な人たちはいたかもしれない。単にそれが報道されなかっただけかもしれない。しかし、現代に立ち返った時、昔のような人たちより「おれがおれが」「わたしがわたしが」と自分を主張し、自分の利益のために行動する人たちが目に余るのもまた事実である。自分さえよければそれでよい、と考えるから、カスハラ、セクハラ等のハラスメントが発生するのだし、長蛇の列で並んでいるところにいきなり横から入ってくる人が出てくるのだろう。
「自分の利益のためにしか働くつもりはない」とか、「自分の会社を大きくすることが第一の目標」とか、そういう人のインタビューを動画などで観ることがあるが、それは違うだろうと思ってしまう。仕事をするとは、自分が生きるためでもあるが、他者のために役立つからという目的もまたあると感じるからだ。利他の精神があれば、自分のためだけに働くとか、他者はどうでもいいという考え方はなくなるだろうと思う。
かつて読んだことがある三浦綾子さんの「塩狩峠」は、自分の身を犠牲にして列車の乗客を助ける物語だった。初読をした当時は、自分の身を投げ出して乗客を助けた人物を尊敬したものだった。が、昨今は違うらしい。この小説を我が子に紹介したら「そんなの、自分の生命が大事だから、いくらそうなっても自分が飛び込んだりはしない」「そんな人は昨今はいない」と言う。ああ、そういう考え方かと思うと同時に、利他の精神が若者の間でも少しずつ失われているのかもしれないと感じたのは確かだった。試しに、職場の同僚にも聞いてみたが、返ってくる答えはみんな同じだった。利他の精神よりは、自分を大事にする方が昨今は主流なのかもしれないと思う。
繰り返そう。「利他」とは現代人に欠けている考え方である。しかも、その是非は人によって違っている。良いと思う人がいる一方で、それはおかしいと思い、利己主義に走る人もいる。そういう中で利他とは何かを問いかけることは決して意味がないとは言えないだろう。
島袋櫂(愛知県)
利他的行動の動機が、性的、経済的なものであることがある。
ここで性的と言うのは、恋愛と同義である。
利他の源泉とは、他者に向ける純粋で冷静な眼差しである。ふと、ああ、大変そうだな、助けてやろうか、と思うことのみが、利他的行動の純粋な源泉なのだ。
しかし、実際は利他的行動の中には、既に書いたように、性的なものと、経済的なものがある。
社会活動にとっては、結果が善なら良いのであって、恋人を探しにくるついでに、善なる行動をする若者(大人でもいいのだが)がいたとして、それがなんだ。地域の活動に経済的なとっかかりをつくろうとする大人(やはり若者でもいいのだが)がいたとして、それは、アダム・スミスの国富論の応用のように、利己的な行動が社会的な利益になるというのなら、それはけっこうではないか。私は、性や経済が、社会的な善なる行動の誘因となるのなら、それも承認したいと思う。
しかし、それは社会的行動であって、断じて、真の政治的源泉とはなられない。なぜなら、政治活動にとって、世の混乱を招く劇薬のような酔いとなるから。SNS の時代に承認欲求も怪物となり得る。
ここで急いで書き付け加えたいのは、聖人が性的な動機よりも利他的な動機が強いとか、愚者がその逆だとかいうことはできないのである。聖人はその鍛錬によって、その精神的な地位を保っているのであって、本当には、恋愛と家庭のことが人生の最優先の懸案である。
「利他者」が少ないのは、それが至難の道だからであり、しかし、それが少数だったとして、「利他」に価値がないことにはなられない。元来、人間は、利他より利己に関心がある生き物なのだから。
小説にとって、利他的なテーマは、崇高で、難解なものだろう。主人公などが利他的な行動を取るという意味ではない、小説家が筆を振るうその原動力が利他的なものであるという意味において。しかし、実際は、人間の最も興味があるのは、恋愛やその失恋であって、利他的な小説というものがあるとして、それは読者を得にくいだろう。
ただ、当事者として、抑圧されたものが、その血肉を通して知った苦難を抗うために描いた小説は、私は面白いと感ずる。それとよく似た抑圧をどこか別の場所で感じているのであるから。ある社会的な現象がもっと哲学的な意味を持っているのである。そして、圧政である時こそ、精神の自由を人々は求め始める。
利他的な行動を純粋に執ることができ、それが継続する人とは、分析(気遣い)の力に富み、個人的な苦難、抑圧と怒りとを利他的な行動へ昇華でき、自己と他者が眼差しを通して一体化し、それは、自信となって、自我を鮮烈に築き、傍観者ではなく、想像力を有したー利他者―として振る舞えるまでの、勇気を絶えず持っていて、そして、社会的闘争に立ち向かえるまでに、自らのトラウマ、生い立ちに対峙してきた人なのだ。真の利他者になられる人はごく少数だ。利他の対象は人種や種を超える。利他の対象である他者とは、たった一人であるとともに、人間関係の束、地域への意識である。
そして、利他の武器は、決して、暴力ではない。対話と説得、そして教育である。誰が、自らのことを考え、自らの物語に気遣ってくれない人の話を聴くだろう。現在において、利他の最高の果実は、他者に行動を促すことなのだから。―利他者―としての行動とは、例えば、相手の興味のあることを話すために気遣いをするというだけで、十分、成立し、今から実践でき、寛容な社会を形成させる。
利他の精神が、ナショナリズムによって圧迫されるような国家、社会になってきた。大切なのは、私たち利他者の意思が滅びなければ、この偽りの世の方が先に消えるということである。確かに、それは暗い夜ではあるが、多くの住民たちは、皆、光を求めている。偽りは長く持たず、自ら闇は消滅するであろう。利他者の意思という薪を絶やしてはならないのだ。
鈴木康央(奈良県奈良市)
「自己犠牲」という言葉がある。他人のために我が身の命を投げうってまで貢献することである。かつての人柱のように強制的に命を持って行かれるものではなく、自らの意志で命を捧げるのである。
女性や子どもにボートを譲って、自分は船とともに海神に吞み込まれていく。あるいは焼け崩れる家屋に残る老人、時にはペットを助けに炎の中に身を投じていく。・・・これらは究極の自己犠牲であろうけれども、後世にまで語り継がれるであろう美談となる。おおよそ人間のあらゆる行為の中で、自己犠牲ほど美しいものはなかろう。最高級の勇気と決断力の結晶であるから。
つまりはヒロイズム、英雄主義ということ。実際に消防士や警察官など仕事上のこととはいえ、他人の救出のために我が身を犠牲にした殉職者たちはヒーローと呼ぶにふさわしい。昔の日本の侍たちも君主のために大勢の敵に一人斬り込んでいったり、時には追い腹を切ることもあった。ただしこれらは、そういう当時の社会の時代背景による半強制的なものであったことが多々あろうが。・・・ちなみに現代日本のスポーツマン及びチームに「侍」を称するものをよく目にするけれども、私など彼らのどこがサムライなのかとんとわからない。ともあれコミックや映画でヒーローものが常時人気があるのは、誰もが現実世界に登場しないヒーローを求め、憧れ続けているからであろう。
さて前節が長くなったが、今回のテーマ「利他とは何か」に入ろう。その概念は基本的には「我が身よりも他人のために力を尽くす」ということで自己犠牲と同じくするものである。ただ命を懸けるほど大袈裟なものではない。俗っぽく言えば、自分が損をしてでも他人に得をさせてやろうといったところか。現実の話として商売にも見られることである。しかし商売と聞くと、どこか胡散臭いものを感じる。いくら「出血大サービス」「赤字覚悟」などと謳っていても、結局は「損して得取れ」の腹であろう、商売人が本当に黙って損するわけがない、実際にいればそいつは阿呆である、と皆知っているからである。
では日常生活における人間関係で「利他」などあり得るものなのか? 商売でなくとも、他人のために無償で世話するのも、意識してようがしていまいが、心の奥底にどこか「自分の利」となることを考えていやしないか。少なくともその行為による自己満足を楽しんではいないだろうか。いや、自己満足が悪いとはおもわない。しかしそれを「利他」と言えるのだろうか。
そもそも「利他」というのは仏教の教え、前回のテーマ「慈悲」にも繋がる行為である。「我利私欲」を捨て、骨身を惜しまず他人のために尽くす心と行動を言うのであろう。・・・しかし、とここで疑問が生じる。ブッダの教えの基本は自他を分けないことではなかったか。分離した自分と他人の間に「利」を置くから、あっちについたりこっちについたりして、ややこしく煩わしい思いをすることになるのではないか。
畢竟「自他を分けないこと」ということになる。「あなたは私、私はあなた」「あなたの苦しみは私の苦しみ」「私の喜びはあなたの喜び」という境地こそが理想の姿であるにちがいない。
ただ言うまでもなく、これはこの世から争いを無くす以上に非現実的なことであることも皆承知。争いも自他の区別から生じるもの。というわけで、これからもヒーローの出現を夢見ているしかないか。
前川幸士(京都市伏見区)
「利他」とは、最近流行りの言葉のようである。本稿を書くにあたって、最寄りの公共図書館で、「利他」をキーワードにして検索してみたところ、百件近い本が検索結果にあがってきた。これも驚きであったが、これらの本は、貸出中のものが多く、近年発刊のものは、予約が十数件待ちという状態であった。貸出までに半年くらいかかるとのこと、図書館の司書の方が、申し訳ないといった表情で対応してくださった。
伊藤亜紗編『「利他」とは何か』には、「利他」に一家言ある論客が、それぞれに持論を展開されている。中島岳志、若松英輔、國分功一郎、磯﨑憲一郎といった諸氏である。さらに、これらの諸氏が、志賀直哉、親鸞、柳宗悦、濱田庄司といった人々を引用しているから、この概念は相当昔から存在したことになる。また、この本自体も貸出の予約多数で半年待ちであったが、上記の論客諸氏の本もまた予約多数で貸出できなかった。近刊の著作ばかりでなく、渋沢栄一の同一論旨の本ですら貸出中であった。この言葉は、そこまでに流行であったことになる。『「利他」とは何か』は、必ず書店にあるはずなので、購入しようとしていたが、友人が持っていたので借りた。結構、身近なところでも読まれていたようである。
他者との関わり方が多様化し、問題となって、難しくなってきた中で、従来の生き方が利己的な態度であるかのようにされるケースが増えているのかも知れない。これもコロナ禍の対人関係が原因なのかも知れないが、アフターコロナの時代になっても「利他」は日本人の課題となっているようである。
「利他」の語は、適度な範囲内での他者への介入、社会通念上での自己犠牲のような概念が考えられるのであるが、この介入や犠牲の程度と基準が、難しくなってきていると考えられる。端的に言えば、他者との距離の取り方が繊細な問題となり、微妙で些末な課題となり、結果として多様化してしまったため、煩雑になったのである。そこで、「利他」の語が多用されるようになったのである。
互いに競い合って、結果的に成長していくということが、通念として通用しなくなったのではないかと考えている。切磋琢磨して向上を目指すということが、とても「しんどい」社会になったのである。より大きく捉えれば、自由競争による経済成長が困難な時代になったのである。
社会主義や共産主義の理想は、競争を排除して、すべての人が協働して、社会の発展を目指すというようなことであったと理解している。『共産党宣言』(1848)に「古いブルジョア社會(およびその諸階級と階級對立と)の代りに、各人の自由な發達が衆人の自由な發達の條件となるやうな、協力社會が生ずる」(堺利彦・幸徳秋水訳)という件があるが、利己的な人が多かったためか、管見にして、そのような社会は未だ実現していないと認識している。社会の構成員の多数が「利他」の感覚を持てば、そのような理想社会が成立するのかも知れないが、これだけ「利他」の語が流行っても、その成立・実現には至らない。ただ、競争に疲れたから「利他」という言葉が好まれるようになっただけのことである。
例外はあるかも知れないが、教育や医療・介護などの現場は、そこで働く教師や医師といった人々の善意によって支えられている側面が大きいはずである。少なくとも競争原理によって発展するような職場ではない。
ここで、冒頭の図書館司書の話に戻るが、図書館の人は、おそらく定額の給料を支給されており、それは図書館の利用者の数に左右されないシステムであると推測される。利用者が多くなって、仕事が忙しくなっても、給料は変わらない。しかし、利用者が少なくて暇な方がいいということにはならない。その報酬はなにか「利他」的なものであるような気がする。他にも「利他」的なものによって成立している職場があるかも知れないが、これも管見にして認識できない。
山下公生(東京都目黒区)
大乗仏教では自分が利益を得ることを自利、他者を利益させることを利他といい、この両面を兼ね備える「自利・利他」が理想とされる。これは、社会が繁栄永続するための根幹をなす重要な理念を秘めている。
自然界の生物が食物連鎖という壮大なエネルギー循環のなかで共存しているように、社会もまた物質と霊が双方一対となり自利と利他を循環し存続している。社会は企業の利益獲得に該当するする自利と、その社会還元に該当する利他の絶妙な循環バランスで潤い活性化し繁栄する。物質的循環である経済活動は、貨幣循環により為されるが、企業が社会から貨幣を合法的に獲得しても、それを社会へ利他還元せずに、自利一方で利益を貯蓄するだけの企業が増加すれば、社会における貨幣の循環は次第に滞る。これを人体に喩えるならば、血液循環を担う血管は動脈硬化に陥り、脳梗塞状態となり、様々な病気を併発することとなる。これは国家の経済的な衰退を意味する。優れた経営手腕と社員の努力により莫大な自利的利益を得た企業が、事業拡大や設備投資、そして社員への富の分配など、可能な限り積極的に利他的な社会還元をすれば、企業もまた社会も潤い、そして国民の暮らしも豊かになり、自他共栄の道を進み国家の経済は繁栄するであろう。
「自利・利他」は、人間の本質を示唆する理念といえる。人間は生物的には哺乳動物であり自利は生命活動の源である。同時に神に霊を注がれている霊的存在で利他的存在でもある。自然界における動物の「自利・利他」の行動は、すべて自利が本源であり、利他は自利を確保するための手段である。野生動物の親が子に示す利他的愛情とは、自分の遺伝子を残すための本能的行動であり、人間の親が子に示す愛情深い無私的利他行動とは次元が異なるものである。また、集団動物に見られる利他的行動は、自分の命を守る自利ための代価を所属集団に支払っているのであり、勤勉な社員が会社に捧げる利他的滅私奉公とは、意味が異なる。人間が自然界の動物に抱く利他的行為は、人間が感情導入して想像したものなのである。
人間の利他は、一般的には生物的な動物本能である自利が文化的に適応進化したものである。「人に情けをかけると、巡り巡って自分のためになる」という意味の「情けは人の為ならず」は、よく利他の役割を表している。仏教で人に法を施す「法施」は功徳が最も大きいもので、功徳をたくさん積むこととなり、仏へ近づくこととなる。相手を幸せにする「法施」である利他により、自分も幸せになり自利も満たされる「自利・利他」の理念は、さらに利他の意味を深めたものである。自利は利他と比べると低俗な利己主義的欲求だと批判されることが多いが、生きる上でのエネルギーの根源であり、利他は、自利の豊穣の土地で収穫された五穀豊穣を祝い、利他の供物を神社へ奉納する祭りの情景に喩えることができる。
「自利・利他」は、自然界における生物圏の食物連鎖による生物間の命の摂取と授与の循環のようなものである。さらに、それを要素化すると人間の呼吸に喩えられる。自利とは摂取であり人間は息を吸って酸素を取り入れて命を保つ。利他は息を吐き、二酸化炭素を放出し植物の光合成を助け、植物の生長に寄与しているのである。
以上、述べてきたように利他は単独では存在することはなく、利他は自利と一対の阿吽の呼吸の如きものである。さらに「自利と利他」は、表裏一体の生命エネルギーの循環と捉えることができるが、地球エネルギーの循環には、太陽エネルギーが深く関わっているように、人間の生命エネルギーの循環である「自利・利他」には、天地創造の永遠に臨在する神が介入していることを、信仰により啓示を受け、神の存在とその神秘的なエネルギーを悟るべきである。自利の本質は自分の命を維持するための動物本能であり、利他とは神の愛のお裾分けである。
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