哲学カフェ

 

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第7回

悪とは何か
 

(五十音順に配列させて頂きました/編集部)


正義は悪に対して正しいが、正義ばかりが横行する社会はどうしても息苦しい

 新井遊(岐阜県加茂郡)

 悪とは正義の対極にあって正義のメリットを強める働きをする。同時に、「必要悪」という言葉に代表されるように無くてはならない存在である。
 正義が悪を打ち倒す。昔話なら「桃太郎」が代表作だろう。現代なら子ども向きの番組(例えばヒーロー戦隊物や仮面ライダーなどの特撮物など)はたいてい正義が悪を打ち倒す構図ができあがっている。正義が悪に対して敗北しそうになるものの、結果的には正義が勝利を得る。
 「桃太郎」が現代の正義と悪の構図を確立した最初の物語なのだろうと、私は考えている。桃から産まれた赤ん坊は、子どものいない老夫婦に拾われ、育てられる。桃から産まれたので「桃太郎」という名前を付けられ、すくすくと成長する。現実にはありえない設定だが、老夫婦が子どもを拾って育てるという事実もあった時代だから、読み手としても納得がいく。
 そのころ都では鬼ヶ島から来た鬼が暴れ回っていた。だれもそれを止めることができず、人々は困っていた。桃太郎は自分が鬼を退治しようと考え、犬、雉、猿をお供にして鬼ヶ島へ鬼退治に出かける。そして、見事鬼たちに勝利し、宝物を奪って戻ってくる。
 ここでは都で暴れ回る鬼が悪の代表であり、それを止める桃太郎が正義のそれである。つまり、正義は悪に対して征伐するものであり、悪は正義の前にはかなわないもの、という設定である。桃太郎が長年に渡り、日本人に指示されてきたのはひとえにこの正義が悪を打ち倒すという構図があったからである。もし逆に、悪が正義を打ち倒す物語であれば、決して後生まで残らないはずである。
 その背景には日本人の道徳心がある。簡単に言えば「正義が正しく、悪は正しくない」という考え方である。いじめをする加害者は悪であり、それに対抗して「止めろ」と口出しをする人間が正義である。駐車禁止区域に勝手に自家用車を止める人間は悪であり、それを罰する政府は正義である。人を傷つける者は悪であり、それを裁く者が正義である。正義は常に悪を止める役割を担っており、そのおかげで悪が蔓延ることはない。私たちはそう考えて生活している。
 だが、正義ばかりが世の中に横行するとまた息苦しくなるのは事実だ。田舎道を歩いていて突如お腹が痛くなり、草むらに粗相をする。粗相をした本人はトイレが遠く、仕方が無くやった行為だが、正義の目から見ればそれは悪である。したがって、たとえ本人がどんな状況にあったとしても、粗相をした本人が悪く、罰せられても仕方がないとなる。これではたまらない。
 こうなると、世の中がぎすぎすしたものになってしまう。正義が政府に委ねられるとますますそれが進行する。かつて観た映画にこんなストーリーがあった。犯罪が多発するという事実を理由に、政府が一人一人のIDを作り、それを体内に埋め込む。これによって政府は国内にいる人間がどこにいるのかを瞬時に掴み、犯罪を犯した者を徹底的に追いつめていく。
 一見すると政府の行為は正しいように思えるが、間違いでもある。犯罪者の摘発に使用されるだけならいいが、悪用された場合はたいへんだからだ。疑わしいと思われる者の自宅に盗聴器を仕掛けても、「正義のため」という理由で許可される恐れもある。つまり、政府が個人の行動を逐一管理することになり、そうなると政府が悪者になってしまう。正義が行き過ぎると、悪に変化することもありうるのである。
  繰り返す。正義は悪に対して正しいが、正義ばかりが横行する社会はどうしても息苦しい。悪があることで正義の良さが強調されるとともに、正義の暴走を止めている。そんな風に考えると、「必要悪」という言葉にも納得がいくのではないか。


悪、それは暗い思い

 うらなり小作(千葉県柏市)
 
 たとえば学校か職場に、ゴミが落ちていたとする。これを拾わないのは悪か? 道徳では、拾うべきだと教えるだろう。 でも中には、管理人もしくは掃除人の仕事を奪うかもしれないと考える人もいる。そうすると、拾わないのが善意となる。ここで、道徳上の態度、「拾う」を実践したとしたら、自分を裏切ることになる。拾うのが悪か善か、それは心にとって嫌な問題だ。
 そもそも善悪を判断することは、思い上がりではないのか? 物を盗む、なぐる、嘘をつく・・、これらは「悪」というよりも「問題」ではないのか?
 私たち人間は、弱い。弱さから引き出される悪は、いったいなんなのだろうか?
 ある真実として、人間は、善をなそうとして悪をなす。それが人間だ。人間の本性に潜む悪は、それほどに強い。その悪への傾向は、他者、組織、あるいは社会に利用される事だってありえる。人間のこの習性が それほどわれわれの無意識的な行動を左右するなら、我々は行動に直結している自分達の「神経」を知らなければいけないだろう。善と悪など甘っちょろい考えの「観念」ではなく、「神経」だ。「神経」には、肉体をも含めたホンモノの自分がある。観念は思いに過ぎないが、「神経」は生死にかかわる。
 生死にかかわって本物を知る「神経」は、本当の<自分の善と悪>を知る。やはり悪のようなことを行うにせよ、善のようなことを行うにせよ、その源は自分にあることを自覚しないと、フニャフニャの善悪の観念に負けて、思わぬ悪をなすにちがいない。それでは、自分にある<自分の悪>とはなにか? それは自分しか知らない。
 それは観念的なものではなく、「神経」的なものだから・・。
 要するに、いろいろの経験の中で自分の悪と善を知ることで、自分の「神経」で接して学び、そしてはじめて「神経」が強くなる。そもそも、みんなが観念的な善に従おうとすれば、みんなが同じ事をすることになる。そうすると、それに反発する人々が出てくる。反発する人が多くなれば、「善の規則」ができる。
 社会や組織の存続などには都合のいい「善の規則」に反抗する人々は必ずいるはずだ。社会や組織の側の善につく人は、強者かもしれない。ともかく、そのような善の現象に反発するのが悪の現象だとすれば、この現象を起こしているのは何か気になる。その底にはなにがあるのか? 善の側と、それに反抗する側とのにらみ合い・・。その間に流れているもの・・。それは、重く曲がったものを引きずった・・、軽い思い込みにも似た・・、暗い「思い」ではないか?


あくまでも悪は悪か?

 風谷大青(岩手県岩手郡)

 故・小池稔先生は、大教室でおっしゃった。「相対主義を標榜するソフィスト達に対して、ソクラテスはそれを批判し、普遍的なるものを主張したのだ」と。もう、30年近くも前になる一般教養の哲学の講義でのことである。「ソクラテスは、何が善かということが相対的に決定されることに危惧を抱いたのだ」、と先生はおっしゃった。
 普遍とは絶対ということと、ほぼ同義であると私は考える。絶対的な善があるということは、絶対的な悪があるということであろう。しかし、絶対的な悪、など存在するであろうか? 私は、小池先生には大変お世話になったが、先生の意見には与しようとは思わない。先生の講義を聴いていて、先生は、ソクラテスの立場を支持しておられたようであるが、私は、ソフィストの相対主義に賛意を示す。悪とは、その時の事情、状況により、善にもなり得るものであり、悪だと見做すからそれは悪となるのである。貴方にとって善なるものは、彼にとっては、悪である場合もあり、貴方にとっての悪は、彼女にとっては善であり得る場合もある。悪とは、貴方が、「悪」と定義するものである。
 最近、韓流スターが、不幸にも亡くなった。そのスターの大ファンだった微妙齢の女性は悲嘆に暮れていた。それを見たその女性の旦那さんは、韓流スターの扮装をして、「君が笑ってくれるなら、僕はパクにでもなーるー」と、言ったとか言わなかったとか……。いや、「パク」ではなく、「悪」についてである。話を本道に戻そう。
 禅の世界では、悟る前に行った善とされる行為も悪とされる行為も全て悪であり、悟った後の悪とされる行為も善とされる行為も全て善であると主張されているらしい。それが真実だとすると、我々は、「しょーこー、しょーこー、しょこ、しょこ、しょっこー」と称えられていたあの凶悪教祖を裁けなくなってしまう。仮にも彼は「最終解脱者」であると言われている。それが、本当だとすると、彼の行ったことは、凶悪事件ではなく、善なる行為となる。善いことをした者を、我々は裁けるのであろうか?
 善悪が相対的に決まるということは、文化相対主義に行きつくであろう。欧米思想の先生も、「文化相対主義を正しいと認めると、都合の悪い事柄がでてくる」とおっしゃっていたが、文化の相対性を認めぬグローバリズムと呼ばれるアメリカナイゼーションにこそ元凶があるのではないか。世界は決して、一色に染め上げることはできない。色々な色があるからこそ、世界は美しい。一つの色だけに染めようとするから、軋轢を生ずるのである。
 世の中を善と悪という物差しで測ろうとすると、生き辛くなることが多いように思われる。世の中には、明確に白黒判別できないものが無数にあるのである。白と黒の間には微妙なグラデーションのものが多数存在するのである。貴方が黒に見えるものも彼にとっては真っ白に見えているかもしれず、貴方に白く見えるものも彼女には漆黒に見えているかもしれないのである。人々は、自分が善で、その自分に反対するものを、悪、だと考えてしまう性向がある。人々は、自分の言動に正当性を担保したいのである。自分が常に善であれば、自分の言動は正義であり、ここに正当性が成立するのである。
 「あくまでも悪は悪ではありえず」「全的に善は善ではない」というのが、私の考えるところである。文化や価値観が違う人々とも付き合っていかなければ、我々は生きてはいけないであろう。様々な人々とともに生きていく我々は、共同で何かを決定・決行するときには、話しあうのが最善の道であろう。物別れに終わっても、平行線をたどったとしても、とにかく対話を継続すること、全ての人々が賛同できないことが多いかもしれないが、議論を尽くすこと、様々な立場・視点から物事を考えることが重要であると思われる。


悪とは正義感

 小林歩美(東京都大田区) 

 私には、本当のことが判らなくなっている。裏か表か、本音か立て前か、見分けられない。私は、きっと無駄に真面目なのだろう。発言しなければ、感情的にならなければ、上手くやれただろうに。 この世界は、正しさを強調することが禁止されているのだろうか。少なくとも、私が見ている景色の中では、そうなっている気がしてならない。ただの嫌われ者になるだけなら、まだいい。正論を述べたことで、悪者になった。真っ直ぐ生きたくても、真っ直ぐ生きてはいけない。
 「正義は必ず勝つ」という台詞はヒーローが言うもの、お話の世界。そんな絶対的なポジションを持ち合わせていない人間には、到底適わない。
 損得だけを考えたやり方が上手くいくはずがないと信じたいが、世の中、そんな身勝手さでもこなせるようだ。
 私も出来ることなら八方美人になりたいが、こんな性分だから出来やしない。私の中で、腐らない強い信念が、悪となって濁っていく。無実と無罪が、全く違うというのに、力のないものが何を述べようとも無駄だというのか。正しいことや間違っていることを言うことは、悪いことなのだろうか。
 対立する上下関係、対立する感情派と理論派は、きっとお互いを思うことなく平然としているからダメなんだ。当たり前のように、臭いものに蓋をしてしまうから、正義感が悪とされてしまう。やれないことを言っているわけではなく、希望的観測を述べたわけでもなく、ましてや自分自身で言い出しておいて行動しないことを指摘しただけなのだから、そこで逃げ出してはいけないはずだ。私には、日常的に、言い訳をし合い、責任のなすりつけ合いをし、犯人探しをし、そんなことをゲームのようにふざけて遊んでいること自体の方が余程「悪」に感じる。
 だが、私の視野はまだまだ狭い。歩んでいくことは、いつか悪になったり、悪にされたり、悪をみたり感じたり、誰かの何かを悪にしてしまうかもしれない。対義するものは全て、その両方をみることになり、その両方を持っていなければならないのかもしれない。決して逃れることは出来ない。感情を伝えても、相手側には真っ直ぐ届かない。全く関係ない真逆の答えが返ってくるかもしれない。まだ上手くはやれない。だけど、上手くやれても、悪からは逃れられない。


善へと導く意識である

 鈴木康央(奈良県奈良市)                       
 
 仏教国の日本人にはもうひとつわかりにくく馴染みがないけれども、西洋の映画に出てくる「悪魔」というのはいかにもグロテスクで、そして圧倒的に強い。主人公を含む善人たちが大いに苦しめられ、ラストシーンまではたいてい悪魔が勝利を得ている。時にはその強さが頑是無い者たちを惹き付ける。
 人間は常々「悪」を意識しておかないといずれ「悪魔」になってしまう、と私は思う。
 そもそもいかなる行為にも、またそれに反応する感情にも「悪」など一切含まれていない。殺人も放火も窃盗も、それぞれの行為は人体への損傷及び生命を奪うこと、建築物の燃焼、所有権の無断剥奪であって「悪」というような行為はない。
 感情的にも、苦しみ、痛み、悲しみ、怒り、恨み等々であって「悪感情」なるものはない。加害者にすればむしろ満足感、達成感、利得感などを覚えるかもしれない。
 と、こんなことを言うと途端に「そういう行為を総称して悪というのだ」と一喝されるかもしれない。しかし、例えば戦争など特殊状況下にあっては、殺人も放火も勲章を授かることにもなり得るし、年金問題などは国家規模の窃盗とも言えるのではないか。現代民主主義の憲法下にあればこそいかなる殺人も容認されないけれども、世が世であれば斬られて当然というケースもあるだろう。私は現代の方が絶対に正しいとは思わない。なぜなら絶対的な「悪」など存在しないのだから、絶対的な「正義」も存在しない筈だ。
 ところで、対になる言葉、例えば上下、左右、大小、男女・・・等々は、それぞれがもう一方を意識させるために存在するのである。下があるから上が存在する、小あっての大、女がいるから男として在るのである。
 神様の本意は人間を「善」へと向かわせることだと思うが、「善」を知るためにはその対となる概念が必要。そこで神様は「善」と同時に「悪」という概念を人間に授けたのだと思う。言わば人を反省させる種火のような概念である。
 ただし「悪」はあくまで概念であり、それを意識するかどうかが問題なのである。絶対的な「悪」の行為も感情もない。ある行為に対し、そこに「悪」を意識した時、その人は一歩「善」に近づくことになる。従って全く「悪」を意識しない人間こそ「悪魔」と呼ぶにふさわしい人間なのであろう。
 実際、自分は良いことをしているという信念で行動する時ほど恐ろしいものはない。まさに怖いもの知らずの全力で平然と何でも実行してしまう。ある宗教団体による忌まわしい一連の事件を思い出してみるとよい。
 地獄の発想や幽霊の想念も、つまるところ「悪」を意識させて後悔を促し、善き方向へと導くための方便であろう。
 仏教には「善悪不二」という言葉がある。善と悪とは分かちがたく表裏一体の関係にある、ということだろう。
 というわけで、時折少々悪いことをして「悪」を意識し、反省する日々を過ごすというのが良い人の生き方ということになりそうだ。
 今日は駅の階段で盲人に腕を貸してあげたし、街中では共同募金に五百円入れたし、帰りに近所の塀の上に置き捨てられた空き缶を持ち帰って捨ててあげたし・・・今日は一日善いことばかりした、などという一日があったら要注意。その時こそ「悪」を全然意識しなかったということで、「悪魔」に近い状態だったのだから。


悪と戦うことが人生

 浜田節子(神奈川県横須賀市)

 悪とは人の判断である。悪は心の中に潜んでいるので、確認が難しいし、見ることは不可能である。ただ結果として、悪という現象が認識され、精神的にも物理的にも何らかの損失をもたらすのである。
 善悪、この二つは複合的に結びついている。悪を取除こうとして善を傷つけることもあるし、善のみを希望しても、悪の陰りを切り離せない。
 なぜならば人の存在自体が、すでに原罪という悪の領域に加担しているからである。
 悪の戒めは、生活の基本。守らねばならない約束、社会のルールとしての悪の排除は世の中の絶対条件であって、悪のはびこる世の中では人は安心を得ることが出来ない。
 限りなく悪を消滅させ、善に溢れる世の中を作ることを理想としているけれど、悪は個人の邪心から発するので、予測不可能なことが多い。
 市民生活において悪は排除すべきものとされている。悪の撲滅は市民生活を守り心地よいものにするという理の当然をわたしたちは甘受している。
 平和は悪の除去において保たれている。戦争は悪をはびこらせ、悪の弊害は罪のない人々をも巻き込んでしまう。
 人の尊厳をむごたらしく傷つけ希望を叩きのめしてしまう、たとえば戦争という悪。
 悪の発症は人が人と比較し、欲望を掻き立てられることにある。悪の根源たる諸慾ではあるけれど、欲という望み無くして発展は無い。
 悪は善と混在している。
 悪は人との関わりの中で知覚し、拒絶という反応を自覚していく。禁止(タブー)という精神の認識は人としての品格を作り上げていく。
 悪は下品であるという認識を強く持つことが、善の領域を広げてくれるはずだと思う。
 必要悪という言葉がある、嘘も方便とも言う。
 あらゆる影(悪)は、善に結びついていて、それを知ることが人の人たる所以であり、真善美という英知への道標となるのだと理解している。
 嘘は悪であり、醜い。けれど、嘘をついたことが無いと断言できる人はむしろ嘘つきかもしれないと思うほど、嘘は人の心を誘導して止まない。
 切り離し難く潜在する「悪」という魔物。人は常にそうした魔物と闘って生きている。
 大きな悪が新聞テレビの報道に上るとき、改めて悪の恐ろしさ無謀を知る。
 犯罪は悪である。いかなる犯罪も他人を脅し貶めるという点で卑俗であり、悪の汚名は避けられない。しかし、曖昧な悪というものがある。日常のいざこざにおける行き違い。
 悪の判定の難しい不快な雰囲気は、消しがたく人の心を傷つけるけれど、決定的な根拠の希薄なトラブルに悪という断罪が降ることはない。
 悪は認識としての判断であれば、隠すことも肯定することも自在である。勝てば官軍、負ければそこに悪のレッテルを貼られることさえあるのではないか。
 悪はやがて滅びる、悪には正当な根拠がない。正義の刃に立ち向かうことは不可能なはずである。しかし、不可能をもってしても増強していくのが悪の特質であれば、人は闘い続けなくてはならない。悪と戦うことが人生かもしれない。


「悪」とは相対的な概念である

 前川幸士(京都府京都市)

 一般に、「悪」とは人にとって有害なもの、好ましくないもの、劣ったものを意味する。よくないこと、天災や病気などのような自然現象、不都合な風俗や制度のような社会現象、さらに人倫に反する個人の意志や行為などである。つまり、人にとって否定的と評価される対象、行為、事態をいう。そして、肯定的な価値としての「善」と対比されるものである。
 しかし、日本語における「悪」は、元来、剽悍さや力強さを表す語彙としても使用され、否定的な意味に限定されるものではない。例えば、源義朝の長男である源義平は、その戦闘における勇猛さから「悪源太」と称されていたという。また、鎌倉時代末期における「悪党」もその典型的な例であり、力の強い勢力を意味する。「悪」は、強いことを表す接頭語として使用されていたのである。
 古代の中国では、天の道に反することが「悪」であり、儒教においても人が礼に定められた分に背き、公の秩序を乱すことを「悪」とする。これは、「性善説」を唱える孟子であっても、「性悪説」を唱える荀子であっても同じことである。日本では「突出した」の意から、「悪」が強いものを意味するが、中国では、突出して平均から外れた者は、広範囲かつ支配的な統治を乱すものであり、徴兵した軍隊における連携的な行動、集団による戦闘の妨げになるという。『水滸伝』において、勇猛果敢な侠客たちも最終的には「招安」という形で体制に併合されてしまうのは、その顕著な例ではなかろうか。
 古来、中国では一人の突出した武力を持つ者いわゆる一騎当千の兵よりも、軍隊集団を統率し戦略を立てるような軍師が重宝された。また、各地を廻って軍事戦略を説き、行政についての助言も行う経営コンサルタントのような遊説家が活躍した。古代中国の百家争鳴期の思想家はたいていこの遊説家であった。
 ここに、中国における「士」と日本における「士」の相違点を見出すことができるのではないだろうか。中国の「士」が、科挙によって資格を得た士大夫、知識人であるのに対して、日本の「士」は、武士・侍であり、基本的には武闘派である。この武闘派集団の世界では、突出した一人の力も極めて有効なものとなり得たのである。
 戦場において、名乗りを上げて、敵味方が見守る中で一騎打ちを行うというような合戦は、近代的な戦争の観点から見れば、ある意味悠長なものである。しかし、おそらく鉄砲伝来まで、長篠の合戦辺りまで、このような形式の合戦が日本では主流だったのではないだろうか。古代から太鼓をたたいて士気を鼓舞し、集団による白兵戦を行っていた中国とは、戦争における強さの基準が大きく異なっていたといえる。言い換えれば、日本ではスタンドプレイが許容されるばかりか賞賛されたのである。少なくとも、武士が政権を握っていた源平の争乱期から鎌倉時代の終わりまで、「出る杭は打たれる」というような評価基準・価値観一辺倒ではなかったことになる。現在でも、悪という概念あるいは語彙は、依然として相違を含んでいる。悪が絶対的な否定の概念であれば、通常はそれを人名に使うことなどあり得ないが、旧字であれば人名漢字として使用できるという。
 「悪」と対比される概念である「善」が、「真善美」と三つ並んで絶対的な肯定の概念であるもの、価値の代表例であるのに対して、「悪」の概念は相対的な否定の概念である。実際に何が「悪」とされるか、その内容は、その人のおかれた環境、社会構造、精神的能力などによって変化し必ずしも一様でない。それは、諸々の宗教及び道徳と深くかかわり、また哲学的反省の重要な課題でもある。 「悪」とは、その人のおかれた環境や社会構造によって変化する相対的な概念である。そういえば、近世の唯物論は「悪」を環境の産物とし、特にマルクス主義では貧困や戦争のような社会悪、利己心や偽善のような個人悪の根源を階級的な搾取と支配に見出している。


善悪判断には、当為者の上位の存在が不可欠である

 山下公生(東京都目黒区)
  
 人は目に見えない感情・思い・考えなどにより行動を起こす。われわれは、その行動の原動力である精神的な存在を直観的に把握できるが、あくまでも表に現れた行動しか評価できない。人が自国の法に照らし合わせて悪い行動を為せば、有罪となり罰せられる。その場合、法は人に対する殺意は罪に問わないが、殺人を実行した時点で罪と定め罰する。つまり、精神が悪か否かの判決は、客観的な整合性を立証できない人間の認識領域を超えたものである。にもかかわらず、精神の悪はその悪い行動の原動力として現に存在することを誰もが直観する厄介なしろものである。
 そもそも、悪とは存在するものなのか、あるいは単なる社会・国家における規律違反を意味するものに過ぎないのかとゆう疑問が生ずる。たとえば殺人は、人が法を犯すがゆえに悪なのか、それとも、殺人は悪なので法で罰するのかとゆうことである。また、殺人が絶対悪であるならば、なぜ戦争での殺人が悪とされないのか。さらには、正当防衛での殺人、不可抗力の過失による殺人が何故、罪に問われないのかとゆう疑問などである。これらの疑問は、悪の行動を引き起こした動機には、形而上学的な悪の存在が関与していることを暗示しているのである。
 科学の世界では、目に見えない電気や磁気の存在でも、認識論の確立により、誰もがその存在を認識できる。つまり演繹的思考(論理)と経験的帰納(実験)の整合性により認識できるが、精神世界の悪とゆう形而上学的存在にたいしては、科学の認識論は適応できない。何故なら形而上学的存在の認識には、経験的帰納が適応不能となり、演繹的思考のみが独走する二律背反の底なし沼へ沈み込んでしまうからである。ここに、現代人が軽視している宗教の重要性が浮上してくる。
 宗教の世界では、古今東西、悪い行動の原動力である形而上学的な悪の存在の探究成果が豊富である。大別すると、悪とは人間自身の内部で生まれる我執(自己中心の感情・考え・欲望)による煩悩にある状態とするもの。あるいは、外部からの働きかけによる怨霊や悪霊による祟り。さらには、悪の根源である悪魔に感染した罪の状態であるとする、キリスト教における啓示がある。概要すると、悪は善と対比される概念であり、光と影の如く表裏一体で存在する。善が光で創造や調和や生を意味するものであるならば、悪は影であり破壊や断絶や死を意味するものとされる。要するに人類を破滅と滅亡へ向かわせる存在が形而上学的な悪といえそうである。
 犬にとっては、主人の喜ぶ行為が善で、怒られる行為が悪である。警察犬と盗賊の飼い犬の善悪判断は正反対となるが、各々の犬の善悪判断は正しい。幼児にとっては、親の善悪判断がその判断基準となり、その親は社会の良識が基準となる。さらに良識は自国の法より導き出されるのである。このように行動の善悪判断を決定するものとは、常に行為者の上位の存在なのである。よって国家間の戦争場合、その上位の存在が不在となるため、戦争における殺人は罪に問われず、勝者が一方的な善悪判断を押しつけることとなる。      
 では、普遍的善悪について考察することは無意味なのか。たしかに、民族固有の価値にもとづく自国の正義を他国へ押しつけることは無意味であるが、万国共通の善悪の公平な判決者を万人は渇望しているのである。だがそこに潜む、独裁者登場の温床を察知しなければならない。つまり、人間は上位の判決者を求めて封建主義国家を形成しその独裁者の暴挙に苦しんできた。ゆえに、万人の正義の集大成である法を整えて、独裁者の権力を移行してきた歴史を忘れてはならない。そして、法の根源であり、その最上位の主宰者である神の存在をたえず心に刻み、世界共通の判断基準となる国際法の完成に期待したい。


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